怪奇漫画の巨匠、日野日出志(76)が21日、大阪市中央区の高津神社・末廣の間で開かれた「日野日出志寄席」の昼夜公演に出演した。2005年から教壇に立った、大阪芸術大学芸術学部キャラクター造形学科の教授を22年度限りで退任することに際し、同大学の教員仲間である漫画家いわみせいじが落語家や講談師を招いた催し。教員としての思い出、今後についてを語った。
「地獄の子守唄」「地獄変」に並ぶ代表作の「蔵六の奇病」を旭堂南湖が講談に仕立て、いわみせいじは日野日出志風の即興似顔絵、桂鹿えもんは「漫画」をテーマにした小咄を披露。桂文鹿は「宗悦殺し」、笑福亭智丸は「腕食い」の落語を演じた。日野は同大学の教員仲間である漫画家・木村直巳を加えた、出演者全員でのトーク企画に参加した。
漫画家の池上遼一の要請を受け、教壇に立って17年。学期中は毎週3泊4日で大阪入りする生活を続けた。「大変で、長くて2、3年かな、と思った。でも、若い子を育てるのは晩年としては面白いと思い、それからは真面目に続けてきた」。乗り物が苦手で、新幹線での来阪は恐怖だった。「車窓から水面が近い浜名湖が苦手。地震で緊急停車、津波、逃げ場がない」という考えにとらわれ、乗車の度に新横浜までに酒を飲み終え、眠ることで「目が覚めたら三河安城」と対策を立ててきたという。
作品のエピソードも披露。当初はギャグ漫画を志したが、赤塚不二夫の存在に衝撃を受け断念。後年、赤塚の娘から赤塚が日野作品のファンであることを知らされ喜んだ。「日常を少しずらしたところに恐怖、笑いがある。そういう意味では紙一重なのかな」と語った。本格的な怪奇漫画に初挑戦し、1970年に発表された「蔵六の奇病」では、周囲に嫌悪されつつ、奇病に冒された蔵六が自らの血と七色のウミで絵を描く様子が描かれる。絵が好きな子どものころ、父親からクレヨンを買ってきてやると言われ喜んだが「包みが小さいと思ったら、たったの6色。ショックが大きくて寝床で泣きました」と回想。24色入りだったら作品が生まれていない可能性を挙げ、笑わせた。
昼夜ともに満員だった演芸企画。大阪芸大教授の定年は70歳だが、1年ごとの更新要請を受け続けてきた。「4月で77歳。さすがにもう体がキツかった。私の花道としてこのような催しが開かれ、想像もしていなかったことでしたが、ありがたい」と感謝した。改めて教員生活を「こちらの指摘で学生が伸びていくのを見た時、悪くない仕事だと思いましたね」と振り返った。
作品に関しても「地獄変」のエピソードを披露。狂気にとらわれた主人公の地獄絵師の家庭では、妻と狂子、狂太という名前の幼い姉弟が登場したが、当時の日野の家庭と同じ設定だった。「妻は何も言いませんでしたが、子どもが寝てから描いてましたね。30代だったあの頃は単行本の仕事だけ。生活が厳しく、妻は出版社のツテで働いていました。漫画の中で妻は居酒屋のおかみとして登場させましたが『あなたに私はこう見えているの』と言ってましたね」と、今は亡き夫人とのエピソードを語った。
2000年代に入り、漫画作品の発表がなくなり、教員生活を軸とした日野。2019年には絵本を発表し、新境地を見せファンを喜ばせた。今後については「どうなるか分からないですね。これ以上何ができるのか、死ぬまでゆっくりしたいという気持ちです。何か新しいことを始めたいという気持ちもあり、それは行ったり来たりですね。半年はゆっくりしますよ」と、穏やかに語った。絵本の新作は、3割ほど進んだところで止まったままだという。
近年は銚子鉄道が発売したスナック菓子「まずい棒」のキャラクター、離婚届のデザインを担当するなど、いまだに多くのファンから注目される日野。「漫画は20年描いていないのにねえ」としつつ「長い間ファンでいてくれてありがとう、という気持ちです」と、柔和な表情のまま、穏やかに語った。