日本のフォーク/ロック黎明期の1972年に設立され、後世に多大な影響を残した伝説のレーベル「ベルウッド・レコード」の50周年記念コンサートが今月、東京・中野サンプラザホールで開催された。レーベルの第1弾シングルとなった、あがた森魚(74)の「赤色エレジー」も同公演で披露されたが、この曲には作曲者名義が発売直前で変わったという昭和芸能史の裏話があった。あがた本人と、同レーベルを立ち上げたプロデューサーの三浦光紀氏(78)という2人の当事者が、よろず~ニュースの取材に対し、半世紀前に起きた舞台裏を振り返った。
「赤色エレジー」が72年にキングレコード内で発足した同レーベルから発売される3か月前、関係者に配られた見本盤(通称・白盤)のレーベル面には「あがた森魚作詞・作曲」とクレジットされていたが、発売時には「あがた森魚作詞・編曲/八洲秀章作曲」となっていた。あがたは「見本盤は1月で、作曲が八洲(やしま)さん名義になったのは4月でした」と明かす。この間に何が起きたのか。
今秋出版された、あがたとライター・今村守之氏との共著となる自伝本「愛は愛とて何になる」(小学館)によると、作曲家・八洲氏の作品「あざみの歌」(1949年発表)にメロディーが似ているとした会社側の判断があったという。あがたのデビュー直前、作曲者を八洲氏とする判断を下したのは当時のディレクター・長田(おさだ)暁二氏。直属の部下だった三浦氏が真相を代弁した。
「長田さんは僕の上司で、倍賞千恵子さんの『あざみの歌』を担当しています。大変お世話になった人です。長田さんは八洲さん、あがたさん双方を知っているから、『自分でもはっきり分からない。ただ、裁判になったら時間が掛かるよ。そうなるとレコードが発売できないから、ここで泣いてくれ』と言われて、(あがた担当だった)僕も泣いたんです。タイミングってあるじゃないですか。僕も長田さんもどっちかというと、あがたさんに味方したいんだけど、そうはいっても世の中には決まり事もありますから」
生まれたばかりの新レーベルからの第1弾シングル。まずはレコードを出さなければ何も始まらない。三浦氏とあがたは苦渋の思いで作曲者変更に同意し、その後、60万枚を売り上げる大ヒットにつながる。三浦氏は「1年後、2年後に発売していたら、あれだけの反響があったかどうか…。やはり、あのタイミングしかなかったと思います」と指摘する。
実際のところ、「あざみの歌」が「赤色エレジー」に及ぼした影響はあったのだろうか。三浦氏は「あがたさんは『あざみの歌』を聴いたことが本当になかったのです。ただ、この件に限らず、音楽って(無意識のうちに)聴いているんですよ。メジャー(長調)とマイナー(短調)の違いがあっても、楽譜はかぶっちゃうこともあるわけですよね。例えば、大瀧詠一さんの『はいからはくち』をメジャーにしたら(本人の)『ウララカ』という曲になる。50年前、理屈的には(あがた作曲で)正しいと僕たちは思っていたんだけど、それが通る時代じゃないし、(レコードを出すために)しょうがなかったと思っています」と打ち明ける。
あがたは「八洲さんもある意味、お気の毒なところもあると思うんです。心の中では(赤色エレジーを)自分が作ったと思っているわけではないでしょうから。(作者であるということは)自分のアイデンティティやプライドにつながるものだから」と相手の立場からも見解を語った。
11日の50周年ライブで、あがたは「この50年が何かの折り返しになって、いろんなことをまた一緒にやっていけたらと思います」と語り、共に活動したバンド「はちみつぱい」の鈴木慶一と武川雅寛をステージに呼ぶと、「赤色エレジー」の歌詞を一粒一粒かみしめるように歌い上げた。
あがたは当サイトの取材に「この秋、いろんな人と話していると、50年前のその当時、『赤色エレジー』という曲から『これ以上、時代の先にがむしゃらに進むのはやめようよ』って(メッセージが)聞こえてきたって言うんです。当時はそういうつもりでもなかったんだけど、あの歌自体がそういうベクトルを強く持っていたんだなと。安らぐというか、肩の力を抜いてゆっくりやろうよみたいな、そういうものがあの歌にあったのは確かだから」と、かけがえのない曲に思いを込めた。
「あざみの歌」は現在もユーチューブなどで容易に聴くことができる。改めて耳にすると、「赤色エレジー」とは似て非なる曲だと感じた。そして、曲自体は半世紀の間に一人歩きし、もはや誰の所有物ではない唯一無二の作品になっている。