今月1日に死去したアントニオ猪木さん(享年79)の葬儀・告別式が14日に営まれ、参列した日本マット界を代表する新旧プロレスラーや各界の著名人、関係者らが「燃える闘魂」に別れを告げた。1998年の引退後も、その精神において生涯プロレスラーであり続けた猪木さん。告別式の余韻が残る中、18年前の取材で録音したカセットテープから「プロレス再興」にかけた思いを〝蔵出し〟する。
取材は2004年12月。当時は前世紀末からの格闘技ブームが続き、K-1やPRIDEが地上波のゴールデンタイムで中継され、かつて「金曜夜8時」にお茶の間を熱狂させた新日本プロレスの隆盛も〝過去の栄光〟となっていた。その新日本は「アルティメット・クラッシュ」という総合格闘技路線を前年から導入したものの、格闘技ブームに便乗した企画は迷走した。
一方、02年から来日公演が定着した米WWEのエンターテインメントに振り切った路線が日本のファンに支持され、国内でもPRIDEの運営会社が立ち上げた「ハッスル」というバラエティー化した興行が確信犯的に登場。〝ガチ〟と〝エンタメ〟の二極化が進んでいた。そのはざまで、猪木さんが確立したストロングスタイルのプロレスは立場を失いつつあり…という時代背景を踏まえて、本人に話を聞いた。
当時のWWEについて、猪木さんは「米国のプロレスは危機的状況にきている」と指摘し、その影響を受ける日本の状況も懸念した。
「(代表の)ビンス・マクマホン氏はビジネスマンとして、プロレスをメジャーに上げたことは評価できるが、残念なことに、そこに魂がないんですね。俺らは(米国の)現地に行って、各地方でプロレスを学ぶ中、力道山によって繁栄の時代にあった日本プロレスと比較すると、『なんだ、これは!』というくいらに落差があった。米国のプロレスが衰退している時代、NWAでも客が300人とか500人とか。ウソだろ!と。日本では入門時から人が群がる大会場にいて、そこから米国に行ったら、客にこびる部分がまん延していて、そんな時代、俺たちはそういうプロレスに拒否反応を起こした。カール・ゴッチさんもそういう思いが強かったために(米国では)ウケなかったというのもある。そういうプロレスの欠けた部分、置き忘れたものを俺たちは持ち続けていかなきゃいけないと思ってやってきたが、客にこびる部分は今も残っていて、ケツを振るとか、ハルク・ホーガンだから許されるけど、そういうことが日本人レスラーに合うか?魂がないものは必ず衰退していく」
プロレスラーは「対社会」を常に意識した存在であるべきと説いた。
「俺たちの時代は『プロレスのイメージを高くしていこう』という意識を持って戦っていた。そのためには命も張った。対プロレスではなく、対社会。『社会』が敵だった。『テメエら、首根っこつかんででも、プロレスに振り向かせてみせるぞ』という、そういう気概が自分のオーラになったりする。今は、そういう基盤ができた上に乗っかって、プロレスの財産でメシを食っている感じがするね。プロレスをより高い位置に上げようという意識が、どの選手を見ても薄いのかなと。そこは俺らのバトンタッチのさせ方がまずかったのか…というところは謙虚に反省しなきゃいけない。むしろ、(当時の)インディーでやってる連中が評価できる。最初は俺の眼中になかったんだけど、こいつらに、ちゃんとポイントを教えてあげたらもっとすごくなると思う」
国会議員になった自身にも言及した。
「プロレスに対して経済理論で多面的な見方ができるか。『蝶(チョウ)のプロセス』というのがあって、幼虫からサナギになって、サナギから蝶に変わっていく過程があるけど、生命それ自体は一緒でも、その都度、脱皮して変わっていく。その脱皮の仕方が構造の変化であり、俺なんかが議員になったのもそうだけど、当時(89年にスポーツ平和党から参院選に出馬して初当選)、プロレスラーが政治家になるなんておかしいという違和感や偏見が一般的なイメージとしてあった。今でこそ認知されたけど、まだ、社会に出てからの勉強が今のレスラーには足りない。プロレスのマッチメークは心理学。勉強して興行に取り入れないと、ファンから見透かされる」
プロレス再興の道を模索した。
「対立構造があるから面白い。馬場と猪木、WCWとWWF、今ならUFCなど格闘技と競い合うといった方向にプロレスが取り組んでいけるかどうか。そもそも、プロレスって何だというと、それは生き様の話。チャレンジしてるかどうか、顔見りゃ分かる。俺自身、野球の長嶋さんと並べていただくこともあって光栄ですが、プロレスは日常的に3大新聞に取り上げられることはないし、そういう意味でのメジャーにはなり得ない。だから、プロレスは面白い」
そして、最後にぽつりと漏らした一言も忘れられない。「俺自身の奥にある物は何だろう?」。本名・猪木寛至。自身の内なる「アントニオ猪木」と戦い続けた人生だったのかもしれない。