akiya_b

「豊臣兄弟!」秀吉主催で行われた信長の葬儀→棺の中に納められていたものとは 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
池松壮亮
池松壮亮

 大河ドラマ「豊臣兄弟!」第31回は「これで、お別れにございます」。天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において織田信長は家臣の明智光秀により討たれます。その光秀も「山崎の合戦」で羽柴秀吉方の軍勢に敗れ、滅亡。

 6月27日には、織田家の宿老(柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興)が尾張国清洲城に参集し、いわゆる「清洲会議」が行われました。会議の結果、信長の孫で幼少の三法師が織田家の家督を継承し、それを前述の織田家宿老が支える体制が採られることになります。

 しかし、織田信孝(信長3男)が三法師を自身の手元に置き、信長の後継者の如く振る舞おうとしたことから、兄の織田信雄(信長次男)が反発。両者の対立は深まっていきました。

 信孝の動きを秀吉は危惧していましたが、信孝もまた秀吉に天下への野心があるとして警戒。信孝は柴田勝家と結び、秀吉と対決姿勢を強めていくことになります(のちに信雄は秀吉と結ぶことになります)。

 そうした中で、秀吉が企図したのが信長の葬儀でした。天正10年10月15日、秀吉は信長5男(4男との説もあり)で自身の養子・次秀勝を喪主として、京都大徳寺にて信長の葬儀を開催したのです。信雄と信孝は当然この動きに反発。信雄や信孝そして柴田勝家は葬儀には参加していません。

 「天正記」(秀吉に御伽衆として仕えた大村由己が著した秀吉の伝記・軍記)には葬儀の警固の大将は「羽柴小一郎秀長」(秀吉の弟)が務めたとあります。大徳寺より「千五百軒」の間は警固の侍が充満し、その数「三万」ばかりだったと記されています。路の左右を守備する侍は弓や槍・鉄砲を持っており、警固の物々しさが同書からは伝わってきます。

 錦紗金襴(きんしゃきんらん)で包まれた棺の中に信長の遺体は無く、香木(沈香)でもって彫刻した仏像が納められました。同書によると御位牌と御太刀を秀吉が持っていたとのこと。秀吉の主催で行われた葬儀の後、秀吉は織田家の当主として信雄を擁立することになります。

(主要参考文献一覧)
・黒田基樹「羽柴秀長の生涯」(平凡社、2025年)
・柴裕之「秀吉と秀長『豊臣兄弟』の天下一統」(NHK出版、2025年)
・濱田浩一郎「秀吉と秀長 天下統一の軌跡」(内外出版社、2025年)

よろず〜の求人情報

求人情報一覧へ

おすすめニュース

気になるキーワード

新着ニュース