6月20日に亡くなった歌手、俳優・美輪明宏さん(享年91)の訃報が公表されてから28日で1か月になる。その足跡から今も数々のエピソードが報じられている。生前、美輪さんの交友関係について取材する中、ネット上では“知己のある人物”とされていた海外の大物ミュージシャンとの接点について本人に確認したことがあった。そのやりとりを紹介する。(文中一部敬称略)
史上最年長の77歳で初出場したNHK紅白歌合戦で「ヨイトマケの唄」を熱唱して注目され、年が明けた13年に取材場所を兼ねた都内の美輪さん宅で話を聞いた。まずは、その内容の一部を振り返ってみよう。
長崎から上京後、銀座で働いていた店の常連だった歌舞伎俳優の十七代目中村勘三郎とは互いに表現者として長い付き合いとなった。その勘三郎に紹介されて交流を深めた作家・江戸川乱歩とは機知に富んだやりとりを繰り広げ、「16(歳)でそのセリフかい!面白い子だな」と、ひいきにされたという。
昭和の文豪・三島由紀夫とは1951年頃の出会いから死別するまで20年近い交流があった。東京・新宿の花園神社近くにあったダンスフロアのある店で、大きな肩パットの入った背広で踊っていた三島に対して「あら、パットだらけ。三島さん、どこ行っちゃったの?行方不明だわ」とジョークを飛ばし、「不愉快だ!」と帰ってしまった三島から半年以上たって電話で後楽園のジムに呼び出されて体を鍛えている姿を見せられた。後日、三島のリクエストに応じ、ビルドアップされた体に着用する革ジャンとジーンズを上野のアメ横まで一緒に買いに行ったという。
1970年11月25日の自決前、公演会場の楽屋に300本のバラを置いて去った三島。美輪さんは「これから先の分はあげられないから…との意味を込めて、生涯分をまとめてくださったのだと思います。あの方は、いつもそういうことをされるお方でした」と偲んだ。
このほか、作家では銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」の前座歌手“クロード野坂”こと野坂昭如をはじめ、遠藤周作、吉行淳之介ら。さらに、芸術家の岡本太郎、劇作家・演出家の寺山修司、俳優の田宮二郎、主演した松竹映画「黒蜥蜴」(68年)と「黒薔薇の館」(69年)を監督した深作欣二、“香港ジョー”という殺し屋に扮(ふん)して松竹映画「激闘」(59年)で共演したプロレスラー・力道山…。レジェンドたちの名が時を超えて飛び交った。
そうした取材の流れで、気になっていた“ある人物”との関係について美輪さんに尋ねた。その人はフレディ・マーキュリー。超人的な歌唱力と表現力、そのカリスマ性で世界的なスターとなった英ロックバンド「クイーン」のボーカリストだ。
91年に45歳で死去したが、存命中はプライベートで来日して骨董品などを買い集め、都内(新宿)には行きつけの店もあったという親日家だっただけに、互いの幅広い人脈からも、接点があったとしても不思議ではない。ネット上では一部で「親交がある」という記述もあり、その真偽を本人に確認すると、美輪さんは「もちろん、その方のことは存じ上げていますけど、一度もお会いしたことはございません」ときっぱり否定した。
「美輪さんとフレディ」という日英の“異種格闘技”的な組み合わせの想像が膨らんでいたことからの質問だったが、はっきりした回答によって、その“妄想”は霧散し、すっきりしたことを覚えている。
当時、テレビ朝日系「オーラの泉」(2005~09年)などで一般の視聴者に認識されていたが、原点である「歌」が紅白での「ヨイトマケの唄」によって再び脚光を浴びた時期だった。美輪さんは「若い人にはショックだったみたいです。こんな歌があったのかと。『ヨイトマケの唄』のヒットは半世紀も前。私(わたくし)が“オーラのおばさん(おじさん?)”とか、みょうちくりんなタレントとしか思われていなかったのは無理もないんですよ。歌い手が本職だと分かっていただいてよかったです」と感慨を込めた。
今もフレディの歌声が世界中で流れているように、本人の肉体がこの世から消え去っても、「歌」は残り、生き続ける。稀代の歌手であった美輪さんの歌声も同様に歴史に刻まれ、引き継がれていく。