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大河ドラマ「豊臣兄弟」織田信長はなぜ大沢次郎左衛門の首を刎ねよと秀吉に厳命したのか 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
仲野太賀
仲野太賀

 大河ドラマ「豊臣兄弟」第5回は「嘘から出た実」。永禄6年(1563年)2月、織田信長は居城を清須から小牧山に移しました。これは犬山城主・織田信清(信長の従兄弟。当時は美濃斎藤氏に通じていた)へ圧力をかけるためだったと言われています。

 信清は鵜沼城主・大沢次郎左衛門を介して斎藤氏と通じていたのでした。信長は一歩一歩と信清方の調略を進めていきます。犬山城の家老・和田新介、中島豊後守の調略を担ったのは信長家臣の丹羽五郎左衛門(長秀)でした。和田・中島氏は長秀を通して信長に投降してきました。すると信長は犬山城の四方に鹿垣を二重・三重に設けて、犬山城を包囲。長秀が警固を担いました。裸城となった犬山は永禄8年(1565年)には落城したとされます。

 犬山城の後背には鵜沼・猿啄・加治田・堂洞といった美濃の諸城がありましたが、信長はそれらを攻略していきました。鵜沼の城主は大沢次郎左衛門(基康)でしたが、信長は鵜沼城を攻略するため、伊木山という高い山に丈夫な要害(砦)を拵え、陣を置きます。『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)には、信長が鵜沼城を攻めたとは書いておらず、圧迫されて城を明け渡した(渡し進上)と記述されています。

 ただ『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が記した秀吉の一代記)には大沢を調略したのは秀吉だったと書かれています。秀吉は計略をもってして大沢を味方に付けたのでした。その旨を秀吉が信長に注進すると、信長は大層機嫌よく「それは(大沢が)余の勇気を恐れたためではなく、その方の謀略が優れていたためであろう」と語ったとのこと。

 また『武功夜話』(尾張国の吉田家に伝わる先祖の武功を記した古記録。偽書との説もあり)には進退極まった大沢が息子の主水を秀吉の陣所に遣わし「降参開城」の件を伝達したと記されています。主水は親の次郎左衛門の命を助けて欲しいと嘆願。秀吉は手間をかけず城が手に入るという事で、「一も二もなく了承」し、この事を信長に伝えるのでした。ところが信長は「大沢が織田信清を唆し、自分に刃向かってきたのは2度・3度とある。よって無益な人馬の損失が生まれた。この度の騒乱の張本は大沢。後の世の見せしめに直ちに首を落として進上せよ」と激怒して命じるのです。

(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長』(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)

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