大河『家康』秀吉から徳川秀忠へ知られざる遺言があった 「秀頼はあなたの子だとお思い?」淀殿の真意 識者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(freehand/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第39話は「太閤、くたばる」。天下人・豊臣秀吉(ムロツヨシ)がいよいよ死去する様が描かれました。では、秀吉はどのように亡くなったのでしょうか。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、秀吉は慶長3年(1598)8月18日に、63歳で亡くなったこと、家康(松本潤)は秀頼(秀吉と淀殿との間に生まれた子)のことを秀吉から頼まれていたので、大事にしたことなどが記されています。

 秀吉は亡くなる前に、五大老に遺言を残していました(8月5日)。それは「秀頼が成り立つように、お頼みします。何事もこの他には、思い残すことはありません」「返す返す、秀頼のことをお頼みします。5人の衆、お頼みします。委細は、5人の者に申し渡しています。名残り惜しいことです」との内容でした。文中の「5人の衆」とは、いわゆる「五大老」(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)のことです。そして「5人の者」とは「五奉行」(前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家)のことです。

 これとは別に「遺言覚書」(全11ヶ条)というものも残されており、その第一条には、家康に対する秀吉の意向が書き留められています。それは「内府(家康)は律儀であり、近年、懇ろにしてきた。よって、秀頼を孫婿にして、秀頼を取り立てて欲しい」という内容でした。家康の孫・千姫(家康の子・秀忠とお江との間に生まれた娘)は、慶長8年(1603)に秀頼のもとに嫁ぐことになります。「秀頼を孫婿にして、秀頼を取り立てて欲しい」ということを、秀吉は前田利家など「年寄衆5人」が居る前で度々、語っていたようです。家康は、伏見城にあって、政務を執ることが求められました。一方、前田利家は大坂城にて秀頼を補佐することが秀吉から求められました。

 余り知られていないことですが、秀吉は家康の後継者・秀忠にも遺言を残しています。「江戸中納言(秀忠)は、秀頼の舅(妻の父)となる。内府(家康)は年をとり、また病になることもあるであろう。そうした時には、内府のように、秀頼の世話をして欲しい」というのが、秀吉が秀忠に頼んだことでした。これまた、秀吉は年寄衆らがいるところで、そうしたことを話していたようです。秀吉は、主として家康と利家に後事を託したのでした。

 さて、今回、淀殿(茶々)が老いた秀吉に向かい「秀頼はあなたの子だとお思い?」と告げる場面が放送されました。秀吉に子種がなく、淀殿に生ませたと思われる鶴松も秀頼も「秀吉の子ではない」という説は昔からありました。16世紀後半から18世紀初頭までの諸大名や武士の言行などを収録した逸話集『明良洪範』には「淀殿は、大野修理(治長)と密通し、捨君と秀頼君を産んだ。秀吉公の死後は、淀殿はいよいよ情欲に耽った」と記されています。

 また、戦国時代に来日し、秀吉とも対面した宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』にも「かれ(筆者註=秀吉)には唯一の息子(筆者註=鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子どもを作る体質を欠いているから、その息子は彼の子どもではない、と密かに信じていた」と書かれているのです。現代の歴史家の中にも「秀頼は秀吉と淀殿の子ではない」説を唱える人もいます。

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