そんな東元さんを病が襲った。昨年の初夏、SNSへの投稿が滞る状況を心配した、近所の高校同窓会メンバーが様子を伺うと、体調を崩した姿があった。肺がんだった。全身に転移しており、特に脳の腫瘍が致命的だった。東元さんは2000年代に天神橋筋六丁目の仕事場を引き払い、実家で両親と3人で暮らした。父親の武さんが21年4月に亡くなってからは、母親の早百美さんと2人暮らし。同窓会はコロナ禍で19年を最後に休止中で、人との接点が減っていた。担当編集者には「ネームができない」と悩みを語っており、脳腫瘍の影響かコミュニケーションにも難が生じる状況だったという。
向井さんは昨年11月23日に東元さんの病室を見舞った際「会いたい奴はいるか」と尋ねると、同窓会メンバーから12人の名が挙がった。12月9日まで10人との対面が実現したが、2人は間に合わなかった。東元さんは12月12日、61歳で世を去った。
中学、高校の同級生、ソフトボール仲間の思い出話を聞いた東元さんの弟、光児さんは「皆さんにはお世話になりました」と感謝した。ただし、家族の中で東元さんに関するエピソードは少ないという。「兄は子どもの頃、家族とほとんど話さずに、ずっと本を読むか絵を描いていました。家族仲は普通だったと思うんですけど、駄菓子屋で僕と会うと、気まずそうに他人のフリをしていたほどです。ただ、当時から絵を摸写した後、アングルを変えて描き直しているのを見て、漫画家になるんじゃないかとは思いました」と記憶をたどった。親戚づきあい、法事などの用事は全て任された。向井さん、吉迫さんには母と弟への感謝をよく話していたというが、「母と僕に面と向かって言ったことはないんですよね」と苦笑した。雑務を全て兄から押しつけられた記憶が強く、少し複雑な表情を浮かべた。
一方で、東元さんは光児さんの娘、菜々奈さんのことはかわいがったという。光児さんは「娘が兄の相手をしてやったようなもんです」と話せば、菜々奈さんは「何でも答えてくれる優しいおじさんだった」と語った。菜々奈さんが大学時代、今宮戎神社の福娘に選ばれた際は、お気に入りの白ジャケット姿で各イベントに駆けつけた。亡くなる直前には菜々奈さんの婚約者に電話で、結婚生活の心構えなど、脳腫瘍の影響か意味が通らない箇所がありながらも、懸命に思いを伝えていたという。
光児さんが「兄の全盛期だと思うんです」と手にしたのはオールカラー漫画誌「ア・ハ」だった。日本がバブル景気で沸く1990年から石油会社のエッソが12冊刊行した豪華仕様の漫画誌。東元さんは「モダン・ハイカラ・ナンセンス」を連載した。「カラーでデザイン性の高い絵で、兄がやりたかったことはこれだったと思います。この頃、講談社『モーニング』の編集者から連載に向けて、一緒にネームを考えましょう!と言われていたのに、『ア・ハ』に手一杯でネームを考えなかった、と話していました。僕はまず食えるようになるのが先とちがうか、と思ったんですけどね」と回想した。
光児さんは「かよちゃんの駄菓子屋」第38話も印象的な作品に挙げる。「僕も含めて、さんざん人を漫画に出してきた兄が、初めて自分を登場させているからです」と説明した。東元さんと同じく雑誌に投稿するなど漫画家を志した時期があったが「兄を見てあきらめました」という。複雑な思いを抱えながらも、東元さんの作品を追ってきた。光児さんは後にイラストレーターとして独立。ユニクロのTシャツ、ゆうちょ銀行預金通帳のカバー、最近ではJR東日本のポスターなどを手がけ、着実に実績を重ねている。
大ヒット作はないものの、周囲には常に個性あふれる仲間、家族がいた東元さん。経済的に不安定な漫画家を諦め、東元さんに家業を継いでもらうことを希望した交際女性もいたというが、生涯独身を貫いた。光児さんは「兄は最期まで漫画家であり続けたと思います」と言った。表情に東元さんへのねぎらい、尊敬の気持ちが浮かんだような気がした。