東元さんは大学3年時の1981年、「月刊漫画ガロ」の新人賞に入選。その年限りで大学を中退した。大阪・八尾市で「さそり」「ワニ分署」で知られる漫画家・篠原とおるのアシスタントを務めた。2年間師事したがデビューに至らず、独立して1985年に「月刊漫画ガロ」でデビュー作「夢奏華(むそうばな)」を発表した。
懐古的でロマンの香りが漂う絵柄が特徴で「江戸川乱歩怪奇短編集 赤い部屋」など1920年代の日本を舞台にした作品が多い。後年は戦後の女子プロ野球を描いた「なでしこナイン」、自身の少年時代の思い出を反映せた「ほな、また明日!」「かよちゃんの駄菓子屋」を発表。北方謙三の単行本カバーイラストなど、小説の表紙、挿絵も手がけた。
独立後は八尾市から大阪・天神橋筋六丁目に仕事場を移した。30代から10年ほど、漫画家仲間が集まったソフトボールチームで汗を流した。関西で数々のテレビ番組に出演し、「月刊漫画ガロ」を中心に作品を発表していた異能漫画家ひさうちみちお氏はチームメートだった。
ひさうち氏は「僕はヘタクソやったけど、彼はすごく上手で活躍してました。彼のことは『とんちゃん』と呼んでいて、飲み会ではノリツッコミというか、他の人のギャグにかぶせるように、ぼそっと何か言うのが実に面白かったですね。本当に楽しませてくれて、ありがとうという思いです」と悼んだ。
仕事場を訪ねたこともあった。「彼が『ガロ』でデビューした頃、僕はあまり評価していませんでした。ところが久しぶりに彼の原稿を見た時に『これいいやないか』と声をかけたのを覚えています。彼は〝ガロ系〟の中ではメジャー寄りというか、メジャーな雑誌にも描いていました。彼の絵は丁寧で、電信柱の広告、ビルの看板まで省略せずに描き込み、背景の町がどのような姿でどうあるべきかを考えていた。手間がかかるので、それをメジャーな雑誌でやることに本当に驚きました」と評価した。遺作となった「かよちゃんの駄菓子屋」の担当編集者も「初めて担当させていただいた作家さんで、新人にも優しくこちらの意見にも真剣に耳を傾けてくれました。駄菓子屋が舞台ということもあり、特に背景に力を入れていたことが印象的でした。駄菓子屋に並ぶとても多くの駄菓子を妥協なく描いて下さっていました」と話した。妥協のない背景だが、写真のトレースのような強い主張ではなく、丸みを帯びた漫画らしいキャラクターと調和しているのが特徴的だ。
そんな東元さんの口癖は「よっしゃ」だった。向井さんは「同窓会の横断幕を保管する役回りで、立候補がないのを見て『よっしゃ』と言って快く引き受けてくれました。東京から帰阪した際にFacebookで同級生に会食を呼びかけたものの、呼びかけた同級生の都合が付かなかったときには『オレが行くわ』と連絡がありました。同級生の会話をよく記憶しており、その甥や息子の近況を気にして、プロゴルファーになった同級生の親族を応援していました」と回想。吉迫さんは20代の頃、失恋相手との連絡を取りたいと東元さんに相談したところ、「よっしゃ」と言って、対面の場を設けたという。控えめながら頼りがいのある人物像が思い浮かぶ。
漫画にも遊び心を加えた。女子プロ野球を描いた「なでしこナイン」で、主人公チームと敵チームのメンバーがスコアボードに並ぶシーン。向井さんは「審判も含めてほとんどが同窓会メンバーの名前でした。僕そっくりのキャラクターも『ほな、また明日!』に登場しています」と笑った。ソフトボールチームのメンバーも「自分の顔が漫画に載っていると嬉しかった。時々メンバーを漫画の中に登場させ、茶目っ気たっぷりに『描いたったで~。どこにおるか探してみぃ』と言って…。その号を買って感想を書いてアンケートハガキを送るようにと、営業もチャッカリしていました」と語った。「なでしこナイン」の主人公が在籍するチーム〝キスリングス〟は、連載開始10年以上前に活動が終了したソフトボールチームの名前。人生の節々の記憶を、愛でるように作品に反映させていた。
「誰が言っても面白くないのに、とんちゃんが言うとなぜか笑ってしまう」という東元さんの一発ギャグ「ブー」。暗黒時代でも春先は優勝を疑わなかった阪神ファン。ソフトボールチーム内でバンドを組みベースを担当した。カラオケの十八番は「上海帰りのリル」。愛煙家でお酒はカンパリソーダを愛飲。記憶力が良く「何年前の発言とか行動とか覚えてるもんね。捏造を疑うこともあったけど(笑)」と話す仲間もいた。