大河『家康』長篠合戦の勝利の要因は鉄砲だけではなかった!? 織田・徳川連合軍の意外な勝因 識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(K.Nakano/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第22話は「設楽原の戦い」。史上有名な長篠の合戦が描かれました。天正3年(1575)5月、甲斐の武田勝頼に、長篠城(愛知県新城市)を攻められて苦戦する徳川家康は、織田信長に援軍を要請。信長は家康の要請に応え、自ら岐阜を出陣します(5月13日)。同月18日に長篠に到着した信長は、志多羅郷の極楽寺山に陣をしきます。信長はなぜここに陣を置いたのか?それは、この地が、低い窪地になっていたからです。

 信長軍は3万の大軍だったとされますが、窪地は敵(武田軍)の目から、大軍勢を隠す役割を果たしてくれました。家康は高松山に陣を設けます。織田の部将である滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀は、有海原に陣をしき、武田方と向き合っていました。家康は、滝川一益の軍勢の前に、柵を設けたとされます(『信長公記』)。騎馬武者の侵入を防ぐための「馬防柵」です。武田勝頼が、長篠城を見下ろせる鳶ノ巣山に本陣を置いていれば、織田軍も手の打ちようがなかったと『信長公記』は記します。

 が、勝頼は長篠城攻撃を他将に任せ、自ら川を渡り、織田・徳川軍と決戦することを選んでしまったのです。勝頼はなぜ主力決戦の道を選んだのか?織田・徳川の軍勢が、長篠城の救援に直接向かわず、馬防柵を設けて「防御体制」をとったことが、勝頼の判断に影響したとも言われています。出張ってくる勝頼の軍勢。それを見た信長は「武田軍が河を背にして、接近してきたことは、天の恵みである。悉く討ち取る」と勝利への自信を深めました。

 その後、信長は2千人ばかりの軍勢(鉄砲部隊も含まれていた)を、鳶ノ巣山に向かわせ、長篠城を攻囲する武田軍を追い払うことに成功します(5月20〜21日)。そして5月21日、勝頼の軍勢が、太鼓の合図とともに、織田・徳川軍に攻めかかってきます。が、織田方には数千の鉄砲が配備されていましたので、鉄砲に打ち立てられた一番手の武田軍はすぐに退いていきます。二番手・三番手、それ以降の武田軍も同じ運命となりました。戦は日の出頃から午後2時頃まで続いたようですが、武田軍が盛り返すことはありませんでした。

 敵わぬと見た武田軍はいつに退却。長篠合戦は織田・徳川連合軍の勝利で幕を閉じるのです。長篠合戦というと、大量の鉄砲により、織田方が勝利したと思われがちです。もちろん、それも間違いではないのですが、武田勝頼軍が、鳶ノ巣山に陣をおかず、主力決戦を挑んだことも、織田方が勝った大きな要因だったのです。

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