忠隣は近江に配流されて、井伊直孝に預けられ5000石の知行地を与えられるのみとなった。その後、天海僧正を通じて、家康に弁明書を提出したが、75歳で死去するまでは許されなかった。小田原6万5000石の譜代大名としてはあわれな最期だった。
だが、親の因果が子に報い―の例えもある。正信の息子・正純は宇都宮15万5000石の加増をされたが、秀忠の逆鱗(げきりん)に触れて改易となり、知行1000石のみを与えられて出羽国由利に幽閉の身となっている。屋敷は逃亡防止のため板戸ですべて掩われたいたという。
今は首都圏屈指の住みたい街となった場所にあった小杉御殿は、跡地にある御蔵稲荷神社、御主殿稲荷神社、陣屋稲荷神社と西明寺門前に建立された碑を残すのみ。謀略の地である面影はどこにもない。