『鎌倉殿』頼朝暗殺を考えていた?曾我兄弟の仇討ちの謎 北条時政の“黒幕説”もあるが 識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(川崎市民団体Coaクラブ/stock.adobe.com)
画像はイメージです(川崎市民団体Coaクラブ/stock.adobe.com)

 1193年5月、源頼朝は駿河国(今の静岡県)富士野において、巻き狩りを行います。巻き狩りとは、犬や勢子(狩猟の補助者)が、猪や鹿などの獣を追い殺す狩猟の一種のことを言います。馬の上から弓で獣を射殺すこともありましたので、武士にとっては、武芸の稽古の意味もありました。

 富士野の巻き狩りの用意は、駿河国の守護であり、頼朝の舅である北条時政が担当。5月15日、頼朝は富士野の狩場に到着します。この巻き狩りには、頼朝嫡男の頼家も参加し、翌日、彼は鹿を射止めることになるのです。頼朝は嫡男の成長を喜んだようですが、巻き狩りの最中である5月28日の夜、大きな事件が起こります。

 曾我十郎祐成、曾我五郎時致という二人の兄弟が、頼朝らの宿営に乱入し、父の仇として工藤祐経を殺害するという事件、後世「日本三大仇討ち」の一つと称される「曾我兄弟の仇討ち」です。

 そもそもなぜ兄弟は工藤を殺したのか。かつて、工藤祐経は、伊東祐親に所領を奪われたことから激怒。祐親の嫡男である河津祐泰を殺すのです。その河津祐泰の息子たちこそ、曾我兄弟でした。河津の息子たちは、母が曾我祐信と再婚したために、曾我を名乗ることになります。

 1190年、弟の曾我時致は、北条時政を烏帽子親にして元服します。曾我兄弟と北条氏の間には、それなりに親密な関係があったと言えましょう。一方、曾我兄弟にとって親の仇である工藤祐経は、頼朝に気に入られ、順調に出世していました。

 曾我兄弟はこれまでにも工藤祐経の命を狙っていたようですが、目的を達せずにいました。そしてついに、5月28日、富士野の巻き狩りの期間中、祐経の宿所に夜、忍び込み、寝ている祐経を討ち取ることになるのです。

 『吾妻鏡』によると、曾我兄弟は祐経を殺した時、「父の仇を討ったぞ」と大声で叫んだとのこと。興奮していたのでしょうが、大声を出したことにより、人々はびっくりし、起きてしまいます。

 しかし、当時は雷雨という悪天候で、夜で真っ暗でしたので、状況は掴めず、多くの武士が曾我兄弟により傷付けられたといいます。とは言え、たった二人ですので、曾我兄弟は追い詰められていって、兄の曾我祐成は新田忠常により討ち取られます。一方、弟の曾我時致は頼朝の宿所に押し入りますが、雑用係の五郎丸によって取り押さえられてしまう。曾我時致が押し入った時、頼朝は剣をとり、自ら立ち向かおうとしたといいますが、御家人に制止されています。

 こうしたことから、曾我兄弟は「頼朝殺害」まで考えていたとの説もあるのです。曾我兄弟の仇討ちを描いた『曾我物語』には、捕まえられ尋問された曾我時致が「頼朝を討ち、後世に名を残したかった」というシーンがあります。

 しかし、『吾妻鏡』には、時致は、頼朝を殺す意図はなく、ただ頼朝の御前に参上し、工藤祐経を可愛がったこと等の恨みつらみを申し上げた上で、自殺するつもりだったと答えたといいます。

 私としては、曾我兄弟は頼朝暗殺までは考えていなかった、つまり『吾妻鏡』の記述の方もとりたいと思うのです。が、「頼朝殺害」の意図があったと主張する人は「弱小御家人・曾我氏の継子・曾我兄弟が頼朝暗殺などという大それたことを計画するはずはないので、彼らの裏に黒幕がいるのでは」と言う人もいます。

 その黒幕の一人に挙げられているのが、北条時政(義時の父)です。前に述べました時政と曾我兄弟との関係性もその説を補強してきたように思います。

 しかし冷静になって考えてみると、時政には頼朝を殺すメリットがありません。急いで頼朝を殺さずとも、頼家の成長するのを待ったら、いずれは頼家の祖父として権勢を振えるのですから。

 それにもかかわらず、時政が曾我兄弟を唆して頼朝殺害という「危ない橋」を渡ろうとしたとは思えません。事件後も時政が何らかの処罰を受けたということもありません。よって、曾我兄弟の仇討ちには、ましてや頼朝殺害計画には、時政は関与していなかったと思うのです。

 さて、曾我兄弟の弟・時致は、尋問の上、5月29日に斬首されます。時致は勇士だとして助けたい気持ちも頼朝にあったようですが、工藤祐経の親族が時致の身柄を引き渡せと泣いて訴えてきたので、先に殺させたようです。曾我兄弟の仇討ちの謎として、頼朝暗殺計画の謎、北条時政黒幕説の謎について考えてきました。

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