NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回は「壇ノ浦で舞った男」でした。物語が一気に進んだ感がありましたね。今回は『安徳天皇は海に沈み死ぬ必要はあったのか?』とのテーマで話を進めていきます。まず、安徳天皇は1178年のお生まれです。父は高倉天皇(後白河法皇の皇子)、母は建礼門院徳子。 徳子は平清盛と妻・時子の間に生まれた娘。つまり、安徳天皇は平清盛の孫に当たります。安徳天皇は、1180年に即位されます。
平家政権がこのまま続いていれば、安徳天皇の人生もまた平穏なものだったでしょうが、源氏方の挙兵・蜂起、平家の都落ち、度重なる戦での敗戦(一ノ谷、屋島の戦い)により、安徳天皇の運命も暗転します。 そして、1185年3月24日、ついに壇ノ浦の戦いを迎えるのです。この戦いにも、平家方は敗れ、平家一門の人々は次々に死んでいきます。
8歳となっていた安徳天皇は入水され、命を落とすことになるのですが、『平家物語』によると、祖母である二位尼(平時子)が「極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」「波の下にも都がございます」と言うと、安徳天皇を抱き抱え、壇ノ浦の急流に身を投じたと伝わっています。
安徳天皇と言えば、二位尼が抱き抱え、飛び込んだと思われがちですが、『吾妻鏡』では按察局という建礼門院に仕える女性だったと記されているのです。 しかも、この按察局、安徳帝と入水するのですが、源氏方に助けられて、命は助かっています。母の建礼門院徳子も同様、源氏方に引き上げられました。
しかし、残念ながら、安徳天皇は海中から引き上げられることはありませんでした。安徳帝は歴代天皇の中で最も短命で、しかも戦において亡くなった唯一の天皇と言われていますが、そもそもの話、入水して亡くなる必要に迫られていたのでしょうか?… といいますのも、安徳天皇の異母弟・守貞親王も壇ノ浦にいたのですが、亡くなることなく、京都に帰っているのです。
それ以降も、親王は危害を加えられるというような目にはあっていません。 それどころか、承久の乱(1221年)後、第三皇子の茂仁親王が皇位をついで後堀河天皇となったため、守貞親王は、天皇の位につかぬまま異例の太上天皇の尊号が贈られ、院政をしくことになるのです。そうしたことを考えた時、安徳天皇は抱き抱えられて、海中に没する必要はなかったように思うのです。それを思う時、幼くして亡くなられた安徳天皇は本当に可哀想と言えましょう。
私の大学時代の恩師の一人である先生も、「安徳天皇は死ぬ必要はなかった」と仰っていました。それまで、私にはそうした発想はなかったので「なるほど」と思ったことを、今回の安徳天皇のシーンを見て懐かしく思い出しました。