2022年が幕開けした。新年の干支は「寅」になる。虎といえば地上の動物の中でも「強さ」の象徴である猛獣だが、その虎と人間が戦う「究極の異種格闘技戦」の発想は古代ギリシャ時代からあった。20世紀以降、その道を極めた人間同士の異種格闘技戦といえば、ムハマド・アリとアントニオ猪木の対決(1976年)を思い出すが、その翌年、「虎VS日本の空手家」という企画がカリブ海の国・ハイチで実現寸前だったことをご存じだろうか。仕掛け人は、アリVS猪木戦を企てた伝説の興行師・康芳夫。康はよろず~ニュースの取材に対し、45年前の「虎にまつわる舞台裏」を明かした。(文中敬称略)
康は著書「虚人魁人 国際暗黒プロデューサーの自伝」(学研)で、その経緯を詳細に記している。
康は、空手家・山元守に虎との対決を依頼して承諾され、77年1月に都内のホテルで記者会見した。試合は同年2月にハイチのサッカースタジアムで行なわれ、対戦相手はインドで捕獲された体重170キロの虎。通信衛星を使ったテレビ中継も計画していると発表された。日本では、当時、格闘技系の実録作品を製作していた東映がドキュメンタリー映画化をオファーし、康は高額の条件で契約したという。
なぜ「死闘」の舞台がハイチになったのか?絶滅危惧種として保護されるべき虎を「見世物」的な扱いにすることへの国際世論の反発があり、強行すれば人命にかかわる危険性があったため、複数の国に会場を打診しても断られ続けた。そこで、康は山元の師匠である極真会館会長の大山倍達に相談し、極真空手のネットワークから支部のあるハイチで政府の許可を取り付けたのだった。
康はハイチ入りして会場の下見や条件を詰めた。サッカー場の中にフェンスで囲んだリングを設営。麻酔銃を手にしたスナイパーを四隅に配し、危険な局面になれば虎を撃つ準備を整えた。試合1週間前、康は虎の恐ろしさを目の当たりにした。
「虎に2頭のドーベルマンをけしかけたところ、虎が前足で軽くはねのけると、2匹の猛犬は数メートルも吹き飛ばされ、血まみれで顔が半分なくなっている状態だった。その瞬間、虎の指からのぞいた爪は出刃包丁が5本ぶら下がっているような代物だった」
山元は恐怖を感じつつ覚悟を決めた。ところが、決戦4日前、試合はハイチ大統領の命令で中止となった。その背景には、フランスの大女優、ブリジット・バルドーの働きかけがあったという。
「世界動物愛護協会の会長であるバルドーが『虎と人間が戦うなんてバカげたことを考えるプロモーターは頭がおかしい。それよりも虎がかわいそう。虎の命が大切です』という趣旨の声明を米国の新聞に発表し、米政権に働きかけた。当時、米国はハイチに年間100億ドルもの経済援助をしていたからです。当時のカーター米大統領がハイチ政府に『試合を強行したら経済援助を打ち切る』と圧力をかけたことで、中止にするしかなかった」
ばく大な準備費用は泡と消えた。だが、康は「不思議と落ち込んでいなかった」という。「どこかで、ダメなら仕方ない」という思いもあった。それほどリスキーな企画だった。空手家の命は守られ、虎は同国の動物園に寄贈された。
康は「ハイチといえば、テニスの大坂なおみさんのお父さんの国ですが、僕は3か月いましたよ。虎1匹のため、大国のアメリカが経済制裁をちらつかせるほどの国際問題になるとは…そんな興行はこれからもお目にかかれないでしょう」と振り返った。
康が企画し、実現しなかった海外での企画として、86年の「ノアの方舟探索プロジェクト」がある。旧約聖書の「創世記」に登場し、神が堕落した人類を滅亡させるために起こした大洪水の中、「正しい生き方」をしていたノアの家族のほか、動物全種類のつがいを乗せた方舟だ。それ以外の人間や動物が絶滅後、方舟はアララト山上に止まり、そこから子孫を残したという話だ。
この「アララト山」は現在のトルコにあり、イランの国境近くに位置する。そこで方舟の残がいを探すという企画だった。康はその経緯を説明した。
「建築家の磯崎新さんが世界平和のために、聖書に出て来るトルコの高原に『ノアの方舟の家』を作るという計画があった。僕は磯崎さんと親しくさせてもらっていたので、『手伝ってくれ』ということで、探検を企画した。ただ、シリアとイラクの国境という一番デリケートなところにあるんですよ。とても、現地に行くのは不可能だった。半分あきらめた状態のままですが、実現したいという思いは今もあります」
「虚実皮膜」の間に漂う、人間の好奇心をかき立てる興行を追い求めてきた康。84歳の現在もYouTubeチャンネルの配信などで精力的に活動している自称「虚業家」は、若い世代のスタッフに支えられながら、今年も新たな企画をもくろんでいる。