だが、病状が悪化したため隔離、転地療養を余儀なくされ、別の場所で最期を迎えたという説もある。子母澤寛の「新撰組遺聞」には「千駄ヶ谷池尻橋の植木屋『植甚』の柴田平五郎宅、川のそばの離れに匿われていた」とある。
この場所は、JR千駄ヶ谷駅から新宿御苑にそって外苑西通りを進んだ大京交番付近だ。今回はこの場所も訪れたところ、新宿区が建てた「伝・沖田総司逝去の地」という小さな説明板もあった。そばには川底だったような場所があり、後ろは新宿御苑。伝というのは伝聞のことだが、こちらの方が沖田の逝去の地にはふさわしい、うら寂しさだあった。
今も分からない「薄幸の美剣士」の終焉の地の謎。動乱の時代に生きた沖田らしい謎である。