18歳でアイドルグループ「チェキッ娘」のメンバーとして芸能界デビューし、紆余曲折を経て最近は〝4度目のブレーク〟中と称されるタレント・熊切あさ美(41)。このほどよろず~ニュースの単独インタビューに応じ、チェキッ娘時代の知られざるエピソードや、意外な〝絶対的ルール〟などを赤裸々に語った。
もともとアイドル志望ではなかったという熊切。芸能界入りを目指して48回のオーディションを受け続けたが結果が出ず、初めて受かったのが「チェキッ娘」の1期生だった。「『平成のおニャン子』として作られたんですけど、事務所っていうのがなくて、フジテレビが預かってる形でした。待遇は良かったですよ。10時以降の帰宅は必ずタクシーとか。親ともしっかり面接していただきましたし」と振り返った。
オーディションでの〝連敗〟が続いていたことから、「絶対落ちるだろうと思って、周囲に言わないで受けました」という。「合格した次の日から帯でレギュラー(番組)が決まるし、写真集やCDも出させていただいた。フジテレビの高視聴率番組に出させていただき、すごい恵まれた環境でしたね。ファンの方も毎日、お台場まで会いに来てくれて楽しかったです」と懐かしそうに話した。
デビューは1998年。テレビ業界では「バブル期が終わったあたりでした」という過渡期。不安もあったという熊切の支えとなったのは、屈辱の経験だった。「オーディションを48回受けてから受かって良かったと思うんです。急にバーッと売れて舞い上がっていた子もいましたけど、私は『このまま行くと、そんなに長くは続かない』と。もともと1年間という約束のプロジェクトだったんで、終わった後のことを考えて、冷静だったと思います」と語った。
周囲の〝教育〟も、厳しかったという。「学校の両立も大変でしたし、甘やかしてくれなかった。あと、最後の方に、芸能界に残りたいか残りたくないかをフジテレビのプロデューサーさんと話し合う面談があったんです。そこで『〇〇事務所から声が掛かってる』と教えてくれて、選ぶことができたんです」と、サポート体制にも恵まれた。
中でも特徴的だったのが、事務所移籍時に必ず結んだというある〝契約〟だった。「その時芸能界に残ったメンバーから、アダルト業界に行った子は1人もいないんです。私もギリギリ脱いでなくて(笑)。フジテレビのプロデューサーさんが、各事務所に送り出すときに『絶対に脱がせない』という約束をして下さってたんです」と明かした。
メンバー同士は「毎日一緒。家族より一緒にいる時間が長かったから、もちろん喧嘩もした」。グループ内での争いは「当時は常に比べられてきた。人数が多いところでやってきたから、解散した後も、どうしても同世代の子と仲良くできなかったですね。『人を見たらライバルと思え』が強く染みついていて…」と、精神的な重圧にもなっていた。
チェキッ娘内のユニットとして結成した3人組「METAMO」は、グループ解散後も継続。だが2002年には「当時はドラマやバラエティーに出たくて歌は好きじゃなかったし、まず『3人組』がやりたくなくて、自分の中でもういいかなと思って、グループは解散してもらいたいと申し出て、個々で頑張ることになった」と、ソロでの活動が本格化した。
同年、テレビのバラエティーで「崖っぷちアイドル」と名乗り話題に。熊切は当時を「崖っぷちって言ってたけど、レギュラーは3本持ってたんです。でも自分では、仕事が毎日ないのが本当に怖くって…。毎日働きたいから、不安でしょうかがなかった」と振り返った。
斬新なブランディングは成功し、仕事も増えた。一方で「プライベートでは、崖っぷちアイドルが邪魔になったこともある」という。「例えば、プライベートでいいなって思った人ができても、その人が『崖っぷちアイドルと付き合ってるの?』とか言われちゃうので、『ああ、言わなきゃ良かったな…』と」と正直な心境も吐露した。
紆余曲折を乗り越えて迎えた、4度目のブレーク。全ての仕事に前向きに取り組んでいる姿は、周囲にも評価されている。「大久保佳代子さんに『仕事は言われたら疑問持たずにやった方がいい』って言われて、確かにそうだなと。この世界は、厳しいイス取りゲームですから」と、いたずらっぽく笑った。