迷宮入りも危惧された2018年5月の「紀州のドン・ファン」事件は、不審死した酒類販売会社元社長・野崎幸助さん(当時77歳)の元妻・須藤早貴容疑者(25)が殺人容疑で逮捕される急展開となった。再び事件への関心が高まる中、当時、キーパーソンの1人としてメディアに登場した「家政婦」の存在も改めてクローズアップされている。3年前、元神奈川県警刑事で犯罪ジャーナリストの小川泰平氏と共に、都内の飲食店で働いていた本人を直撃した時の様子を記者の視点で再現する。
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2018年9月26日夜、東京・銀座には雨が降っていた。銀座8丁目のビル内にあるスナック。テレビのワイドショー番組で事件が連日のように報じられ、野崎さん死亡時に自宅にいた家政婦として〝渦中の人〟となった、当時60代の彼女は、8月下旬から同店でアルバイトしていた。
小柄で、こざっぱりしたモノトーンのワンピースに黒いカーディガンを羽織っていた。源氏名は「小雪」だった。カウンター7席、ソファーテーブル4席の店。早い時間帯だったこともあるが、興味本位で訪れるような客はいなかった。
「家政婦」という表現はここまでとし、以降は「Xさん」とさせていただく。Xさんは、カウンターの中で「私、簡単なものしか出せないけど…」とつぶやきながら、飲み物とピーナッツを差し出した。雑談しながら、記者が身分を明かして名刺を渡した、その時だった。
「私は殺していません」
Xさんは私の目をまっすぐ見つめながら、そう言い切った。まさに〝名刺代わり〟の切り返し。「テレビに出られたのはうれしかったけど、全国で有名人になってしまって大変でしたよ」。顔出しでテレビに録画出演した後、世間からの厳しい視線や罵声を浴びたこともあったのだという。彼女は切実な言葉で訴えた。
「道を歩いていても、『人殺し!4千万円はどうした!』って、通りすがりの人にヤジられました。私は『1円ももらってないわよ』って言い返しましたけど。私は社長を殺していません。殺してないからテレビにも出たわけですから。社長が死んで私が得をすることは何もない。家政婦としてお金をいただいていたんだから、生きていて欲しかった。なのに、『人殺し』『お前が殺したんだろう』とかいろいろ言われて…。それを訴えてもしょうがない。我慢するしかないと思って黙っていました」
ちなみに「4千万円」とは、Xさんが「野崎社長から4千万円もらえる約束がある」と、メディアの取材にコメントしたことに由来する。また、詳細は本人の強い意向で伏せるが、自分のために、今回の件とは無関係な家族の仕事にも支障をきたしたことを明かした。
Xさんは須藤容疑者のことを「サキちゃん」と呼んでいた。事件発生後、同容疑者が出演していたとされるビデオ作品がネットの動画サイトで配信されて一部で話題になった。今回の逮捕時にも動画サイトのランキング1位になったと報じられた。その映像を、Xさんは野崎さんに知られないように腐心したという。
「サキちゃんがビデオに出ていると従業員に教えられたんです。そのビデオを見せてもらって驚いたんだけど、野崎社長が知るとショックだから、絶対に言わないようにと従業員にはクギを刺しました。社長の耳には入っていないはずです」
また、野崎さんのこれまでの女性観や性生活の様子、亡くなる直前の性的な面での体調についても、事件に関連する要素として第三者の視線で語ってくれたが、故人のプライバシーに触れるので内容は割愛する。
1時間ほどの滞在で退店した。その後、Xさんは店を辞めたと聞いた。
19年2月に放送されたテレビ番組で、Xさんは再び素顔で録画出演していた。その時は都内の居酒屋で働いているとのことだったが、現在、(おそらく一部の人を除いて)Xさんの消息は分からない。須藤容疑者が逮捕された当日、小川氏からの電話にも電源を切っていたのか、反応しなかったという。
野崎さんとは30年以上の付き合いがあり、同氏が東京で事業を展開していた時代には協力するなど、故人にとっては盟友的な存在だったXさん。再び表に出て来るか、沈黙を続けるか。本人にとっては、忘れられることが一番なのかもしれないが、再燃した事件を解明していく中で、あのとき、あの家にいた人物として改めて注目されていることは事実。今頃、どこかの街の空の下で何を思うのだろう。