akiya_b

大河ドラマ「豊臣兄弟!」秀長は四国征伐において、秀吉の出馬をなぜ食い止めようとしたのか 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
 仲野太賀
 仲野太賀

 大河ドラマ「豊臣兄弟!」第36回は「姫若子と鬼若子」。天正13年(1585年)5月、羽柴秀吉は四国平定を果たした長宗我部元親を討つため、黒田孝高・一柳直末ら諸将に出陣を命じます。

 5月8日には秀吉の弟・秀長にも出陣の命が下りました。当初、秀吉は自らが総大将として出馬するつもりでしたが、病のため断念。代わって秀長が四国征伐の総大将として出陣することになります。

 「天正記」(秀吉に御伽衆として仕えた大村由己が著した秀吉の伝記・軍記)によると、秀長は「八万余騎」の軍勢を率いていました。羽柴方の軍勢は阿波国・讃岐国・伊予国など多方面から侵攻します。

 長宗我部軍は兵力を三分せざるを得ず、また羽柴軍に比べて軍勢も少なかったため、次第に劣勢となっていきました(長宗我部方の最大動員兵力は4万ほど)。しかし四国征伐はすぐに決着が付いた訳ではなく、講和成立は8月上旬。病が癒えた秀吉は一気に決着を付けるため、自ら出陣しようとします。

 しかし兄・秀吉の出馬を秀長は食い止めようとしました。秀吉の側近(細井中務少輔)に使者を遣わし、書状を奉呈。秀吉の動座に待ったをかけたのです。秀長は秀吉の動座を「驚き」としつつ、自身の「弓矢の力が足らざるによりて」秀吉が出馬することは秀吉の威光が乏しいように受け取られてしまう。また某(秀長)も「恥辱」を受ける。よって動座を取り止めて欲しいと主張したのでした。

 総大将として出陣しながら、秀吉が出馬してきたら、それは武人としての「恥辱」。秀長は何としても兄の助けを借りず、長宗我部氏を降す必要があったのです。秀吉は秀長の意向を受けて、出陣を取り止めます。秀吉は7月3日に出陣する予定でしたが、秀長の「外聞」を考慮したのでした。

(主要参考文献一覧)
・小和田哲男「秀吉の天下統一戦争」(吉川弘文館、2006年)。
・和田裕弘「豊臣秀長」(中央公論新社、2025年)。

よろず〜の求人情報

求人情報一覧へ

おすすめニュース

気になるキーワード

新着ニュース