大河ドラマ「豊臣兄弟!」第32回は「賤ヶ岳の決闘」。天正10年(1582年)10月、羽柴秀吉は本能寺の変で討たれた亡き主君・織田信長の葬儀を主催しました。その葬儀には織田信雄(信長次男)や織田信孝(信長3男)、柴田勝家(織田家宿老)は列席しませんでした。
織田信孝は幼い三法師(信長の孫。信忠の子)を岐阜に擁し「織田家新体制」の主導権を握ろうとしますが、秀吉や丹羽長秀・池田恒興らはそれに対抗し、織田信雄を織田家当主に擁立します。三法師を当主とする信孝・柴田・滝川、信雄を擁する秀吉・丹羽・池田に「織田家新体制」は分裂したのでした。同年11月末、ついに軍事抗争が起こります。
信雄を安土城に迎えることを名目として、秀吉は信孝や勝家らの討伐に動くのです。柴田領となっていた近江国長浜の長浜城(城代は柴田勝豊。勝家の甥)を攻撃する羽柴軍。この攻撃により勝豊はすぐに降伏してしまいます。
その後、秀吉軍は信孝がいる美濃国に進軍しますが、美濃に進軍するための重要な拠点にあった佐和山城(滋賀県彦根市)には羽柴秀長(秀吉の弟)が入れ置かれています。美濃に侵攻した秀吉は信孝の本拠である岐阜城を包囲。すると信孝もすぐに降伏の姿勢を示します。
信孝は三法師を手放し、人質(母や子供)を秀吉方に差し出したのでした(12月21日)。美濃と長浜は秀吉により攻略されます。三法師と信雄は安土城に移ることになり、これにより、織田信雄が織田家当主としての立場を確立させていくことになるのです。
しかし、柴田勝家や滝川一益は信雄に従うことはなく、秀吉は翌天正11年(1583年)2月、彼らを討伐する軍勢を発します。先ず、近江国長浜に侵攻した秀吉軍は長浜城(勝家の甥・柴田勝豊)を攻略。その後、秀吉軍は信雄と共に北伊勢の滝川一益方の諸城(亀山・峯・国府)を攻撃することになります。
この秀吉方の動きに柴田勝家も対抗し、深雪の中を越前から北近江に出陣しました。勝家が秀吉に対抗するため、連携を求めたのが足利義昭(室町幕府15代将軍)を擁する西国の雄・毛利輝元です。
勝家は毛利氏を動かし、秀吉方を挟撃せんとしたのです。しかし、毛利氏が勝家の要請に応えることはなく、秀吉軍と勝家軍とによる賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)は秀吉軍の勝利に終わるのでした。
(主要参考文献一覧)
・黒田基樹「羽柴秀長の生涯(平凡社、2025年)
・柴裕之「秀吉と秀長『豊臣兄弟』の天下一統」(NHK出版、2025年)
・濱田浩一郎「秀吉と秀長 天下統一の軌跡」(内外出版社、2025年)