大河ドラマ「豊臣兄弟!」第33回は「北庄城の別れ」。天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)で羽柴秀吉は柴田勝家に勝利します。敗れた柴田軍は越前国(現在の福井県)に敗走しました。秀吉軍はこれを追い、4月22日には越前府中(越前市)に着陣します。その後、勝家の居城である北庄城(福井県福井市)まで進軍した秀吉軍は同月23日に同城を攻撃するのです。
「天正記」(秀吉に御伽衆として仕えた大村由己が著した秀吉の伝記・軍記)はこの北庄城を勝家が長年にわたりこしらえ、「兵三千人」を入れ置いていたと記しています。しかし、秀吉軍の攻撃に勝家の「力及ばず」、ついに最期の時を迎えます。天守に入った勝家は股肱(ここう)の臣80余人を呼び集め「勝家の運命は明日に極まった。今夜から曙にかけて酒宴・遊興して名残を惜しむべし」と伝えるのでした。
盃が酌みかわされ、舞いが舞われ、一見楽しげに見えますが、その内実は「終に悲しみの意(こころ)休まず」との有り様だったと言います。落城寸前で死を目前に控えているのだから、それも当然でしょう。深夜になると最後の酒宴も終わり、諸士も「退散」していきました。勝家は妻の小谷の御方(織田信長の妹・お市の方)と2人になると、小谷の御方に「勝家の妻女ではあるが、将軍(信長)の親族であるので、明朝、敵陣に案内しよう」―つまり城から出て落ち延びることを命じます。
しかし、それを小谷の方は「女人たりといえども、意(こころ)は男子に劣るべからず」と拒否。夫・勝家と共に自害することを願うのです。こうして、勝家は明朝、小谷の御方を始めとする「妾」「女房」を次々と刺し殺すと、自らも凄まじい切腹で死んでいくのでした。柴田方の壮絶な最期を見聞して、多くの者が感涙にむせんだと「天正記」には記されています。「天正記」は秀吉の活躍を記録する軍記物ではありますが、敵将・勝家らの最期を同情の目でもって見つめているのです。