終戦から81年。旧満州(現在の中国東北地方)で音楽に打ち込んでいた当時24歳の男性が「終戦の日」の5日前に105歳の誕生日を迎えた。米寿の2009年に“世界最高齢ラッパー”としてメジャーデビューした歌手の坂上弘がよろず~ニュースの取材に応じ、戦時中に親交のあった国民的俳優・森繁久彌の代表曲「知床旅情」を聴衆の前で歌うことを目標に掲げた。(文中敬称略)
「人生100年時代」と言われて久しいが、実際に100歳を超えて健康体でいられる人はまれな存在だ。坂上は1921年(大正10年)8月10日生まれ、佐賀県出身。同年生まれの著名人は、実業家の盛田昭夫、作曲家の吉田正、料理家の土井勝、東京五輪バレーボール女子チームを金メダルに導いた監督の大松博文、喜劇俳優の由利徹、米俳優のチャールズ・ブロンソン、フランスの歌手・俳優イブ・モンタンらがいるが、いずれも鬼籍に入っている。
坂上は今年の誕生日に自身の公式X(旧ツイッター)を更新して感謝の言葉を綴り、添付したショート動画で「105歳になりました。これからも元気で頑張ります!」と笑顔でアピール。当サイトには「元気でどこも悪いとこはない。まだまだ長生きしますよ!」と付け加えた。
さらに、旧満州で迎えた終戦の日についても言及。「玉音放送は聴いていなくて、2~3日後に人づてに戦争の終わりを知った。近所の奧さんが泣いていたらしい。(自分は)ボーっとしてたね。特に感想…ないねぇ」。80年以上を経た今の世相についても、坂上は「なりゆきまかせ。しょうがない。(それで)いいと思う。何も心配することはないよ」と自然体を貫く。
日本から旧満州に渡ったのは19歳となる1940年(昭和15年)のこと。炭鉱会社に就職した。「満州炭鉱の機械科で大砲の機械を修理していた。社長(※理事長)は(張作霖爆殺事件で知られた陸軍軍人の)河本大作さん。いい会社だったよ。森繁さんは満州の放送局におられました」。坂上は会社のブラスバンド部でトランペットを習得し、現地のダンスホールで演奏したことも。満州国の首都・新京(長春)の楽団で歌も学んだ。7歳年上の森繁はアナウンサーとして新京中央放送局に勤務していた。
「森繁さんは歌の師匠が同じで、先輩弟子に当たります」。そう語る坂上が森繁の世話になったのは、終戦後、満州から日本への引き揚げ船の出発地となった中国の港湾都市・葫芦島(ころとう)に滞在した日々だった。「森繁さんに俳句の会に呼ばれて参加した。そこで(他の人が)詠まれた『俘虜(ふりょ)の我 大夕焼けの 野に立てる』という句が今も忘れられない」。満州の夕焼けを思い描きながら、1947年に引き揚げ、東京でトランペット奏者として活動した。
「北朝鮮に疎開して会えなかったので探し出した」という妻と生活を共にしたが69年に先立たれ、90年には自身が交通事故に遭って1年半入院。その体験を元にした自作のラップ曲「交通地獄」を95年にカセットテープで自主制作し、「卒業」(尾崎豊)のカバー曲を収録したアルバム「交通地獄そして卒業」を2005年にインディーズからリリース。09年にアルバム「千の風になる前に」(ビクター)でメジャーデビューした。
その後も歌い続けたが、コロナ禍で活動継続が困難となり、20年10月にSNSを通して「99歳になり引退することにしました」と公表。100歳を迎えた21年、独り暮らしだった都内のアパートから北関東にある高齢者施設に入居して現在に至る。
だが、引退宣言時には「皆様のご支援次第で、また歌うこともしたいとは思っております」と含みを持たせていた。くしくもメジャーデビューの09年に森繁は96歳で死去。アルバムに収録することがなかった「知床旅情」(森繁の作詞作曲)を「いつか歌いたい」という思いが東京を離れた5年の間に募っていた。
没後17年となる森繁が残した作品は今も語り継がれている。8月16日から10月17日まで「森繁力」と題し、都内の映画館・ラピュタ阿佐ヶ谷で森繁の出演映画36本が9週間に渡って特集上映中。坂上は改めて“兄弟子”への思いを胸に「『知床旅情』を練習してみなさんに聞かせたい」と宣言した。
「100歳記念のライブ」はコロナ禍で断念したが、支えてくれる関係者やファンの前で歌うという悲願を胸に、“100代後半"での復活への思いが再燃している。