大河ドラマ「豊臣兄弟」第17回は「小谷落城」。元亀4年(1573年)7月、織田信長と反目を深めていた15代将軍・足利義昭は信長に対し、再度、挙兵します(1度目の挙兵は同年2月でしたが、両者は和睦していました)。義昭は宇治の槙島城に籠りますが、織田軍の猛攻により敗退。義昭は助命されるも、都から追放されます。河内国の若江城まで義昭は護送したのは、羽柴秀吉でした。転落した義昭を人々は「貧乏公方」とあだ名し、嘲笑したとのことです(『信長公記』)。
義昭を下した信長は休む間もなく、敵対する近江国の浅井氏方の城を攻撃、これを攻略します。浅井氏を救援するため、越前国の朝倉義景が出陣してきますが、信長はそれを迎え撃ちました(同年8月)。朝倉軍を追撃せんとする信長ですが、信長は朝倉軍への攻撃を諸将(佐久間信盛・柴田勝家・羽柴秀吉・滝川一益など)にも厳命していました。
ところが実際には朝倉軍への攻撃は信長自ら率先して行うことになり、諸将は遅れをとることになります。この怠慢に怒ったのが信長であり、多くの部将は自らの落ち度を詫びますが、1人、佐久間信盛だけが「我々ほどの優れた家臣をお持ちになることは滅多にあるまいに」などと自己弁護に走ったとのこと。信長はそのような強弁を嫌いますので、当然、信盛にその場で激怒しています。
越前に敗走する朝倉軍を追撃する織田軍。朝倉義景は本拠の一乗谷から大野郡の賢松寺へと逃れました。しかし、従兄弟の朝倉景鏡が離反したことにより、義景はついに自刃に追い込まれます(8月20日)。
同月26日には信長は早くも近江の浅井氏を攻めるため、虎御前山に陣を置きます。翌日、小谷城の京極丸(小谷城の城郭)に攻め登ったのは羽柴秀吉でした。そして翌日には浅井久政(長政父)を自刃に追い込むのです。そして9月1日には浅井長政が自刃して果てます。こうして信長を散々苦しめた浅井・朝倉氏は滅亡したのです。
長政の妻・お市と3人の娘(茶々・初・江)は織田家に引き取られることになります。長政には10歳の嫡男(母はお市以外の女性)がいましたが、探索されて関ヶ原で磔となりました。また朝倉義景の長男・阿君丸も探し出され、丹羽長秀によって殺害されています。戦国乱世の悲劇と言うべきでしょう。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長』(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)