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大河ドラマ「豊臣兄弟」織田信長は浅井長政の裏切りをなぜ信じようとしなかったのか? 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
中島歩
中島歩

 大河ドラマ「豊臣兄弟」第14回は「絶体絶命」。永禄13年(1570)年1月、織田信長は東国・西国の十数カ国の守護や国人に対し、2月半ばまでに上洛するよう触れを出します。禁中(皇居)の修理や将軍の御用その他、天下静謐(せいひつ)のため、自分(信長)も上洛するので、大名らも上洛せよと言うのです。

 上洛を求められたのは徳川家康や三好義継・松永久秀・武田元明や若狭国衆、浅井長政、北畠具教といった大名や国衆でした。越前の朝倉義景にも上洛命令が発せられたとも考えられていますが、それに関する一次史料は残っていません。

 義景が上洛してこなかったことは、信長に越前征伐の口実を与えることになります。同年4月20日、信長は若狭・越前に出陣しますが、当初は若狭国の武田氏の家臣(武藤有益)を討つとの名目で出兵しています。織田軍は3万の軍勢を率いていたとされます。

 織田軍が攻撃したのは、越前敦賀の手筒山城や金ヶ崎城でした。越前敦賀に軍勢を進出させた信長は、土地の様子を見ると、すぐに手筒山城を攻撃。要害にあった城でしたが、信長の攻略せよとの下知のもと軍兵は必死に戦い、朝倉方の首を1370も挙げます(4月25日)。

 金ヶ崎城(守将は朝倉景恒)も信長方はあっという間に攻略しました。織田軍は勢いに乗り、さらに侵攻せんとしていましたが、そこに一報が寄せられます。北近江の浅井長政が信長に背いたというのです。信長は妹のお市を長政に嫁がせていました。また北近江の支配も任せていたので、まさか長政が裏切るはずはないと信長は考え、長政の裏切りを信じようとはしませんでした(「信長公記」)。

 しかし続々と寝返り情報が寄せられたことで、さすがの信長も「仕方がない」として、浅井・朝倉に挟撃されないために撤退を決意するのです。「信長公記」には信長は「木下藤吉郎」(秀吉)を残し、都に向けて撤退したとあります。同書には金ヶ崎の撤退戦に関することは残念ながら記載されていません。4月30日、朽木越えをして、朽木信濃守の尽力でようやく都に入ったとの信長の動きが記されているだけです。

(主要参考文献一覧)
・池上裕子「織田信長」(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人「織田信長」(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎「秀吉と秀長 天下統一の軌跡」(内外出版社、2025年)

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