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大河ドラマ「豊臣兄弟」姉川の戦いで織田信長はなぜ切腹する覚悟を示したのか? 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
小栗旬
小栗旬

 大河ドラマ「豊臣兄弟」第15回は「姉川大合戦」。元亀元年(1570年)4月、北近江の浅井長政の突然の裏切りは織田信長を驚かせ、信長は苦杯を嘗めることになりました。しかしそれで萎んでしまうような信長では当然なく、調略でもって浅井方の武将(堀秀村・樋口直房)を寝返らせるなど攻勢を強めていきます。同年6月21日には織田軍は長政の居城・小谷城まで迫り、城下の町を焼き払ったりしています。

 信長は虎御前山(滋賀県長浜市)に陣を置き、柴田勝家や丹羽長秀・木下藤吉郎(秀吉)らに命じて、村々を更に焼き払いました。そして翌日には兵を撤退させます。そこを敵方が追撃してくるのです。織田軍には鉄砲500挺、弓衆(30人)が殿(しんがり=後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊)に加わっていました。また梁田左衛門太郎・中条将監・佐々内蔵助らの奮戦もあり、無事に撤兵することができました。織田には徳川家康という心強い味方も駆けつけてきます。一方、浅井にも越前の朝倉氏から援軍(8000人)が派遣されてきました。

 こうして姉川(現在の滋賀県長浜市)において織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦が始まるのです。「信長公記」(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)には「推つ返しつ散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり」と両軍の激闘の様が記述されていますが、秀吉についての記載はありません。一方、「浅井三代記」(浅井三代の興亡を描いた記録。史料的価値は低い)には織田方の先陣は「坂井右近」、二番は「池田庄三郎」、三番は「木下藤吉郎」、四番は「柴田修理亮」(勝家)などと記され、秀吉の参戦が記されています。「信長公記」には織田方が苦戦したとは書かれていませんが「浅井三代記」には浅井・朝倉方の猛攻が描かれ、織田・徳川が苦戦する様が描かれています。

 浅井方が織田の軍勢を切り崩していったので(13段の軍勢を11段まで切り崩した)、信長は「手に汗を握り、御腹めさるべきとの覚悟」をすることもあったとまで記されているのでした。信長の危機を救ったのは徳川軍だったと同書にはあります。戦国時代の公家・山科言継の日記「言継卿記」には織田・徳川方にも多くの戦死者が出たとも書かれていますので、信長が切腹するまで思ったか否かは別にして、織田・徳川方もそれなりの損害を被ったと思われます。

 ちなみに秀吉は「浅井三代記」において合戦後にすぐに浅井の居城(小谷城)を攻めこれを乗っ取るべきことを信長に進言しています。しかし信長は城中には敵方の兵が多くいるとしてこれを受け入れず。同書には信長がこの時、秀吉の進言を容れていれば、即時に小谷は落城したであろうと書かれています。

(主要参考文献一覧)
・池上裕子「織田信長」(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人「織田信長」(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎「秀吉と秀長 天下統一の軌跡」(内外出版社、2025年)

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