大河ドラマ「豊臣兄弟」第11回は「本圀寺の変」。永禄11年(1568年)、織田信長に擁されて上洛した足利義昭は、同年10月に征夷大将軍に任じられます。義昭は信長に感謝し「副将軍か管領職に任じよう」と提案しますが、信長はこれを固辞しました。また義昭は書状の中で信長を「御父」とまで呼び、敬意を表しています。10月28日、信長は岐阜城に戻りました。その隙をついて、信長に都を追われていた三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)が巻き返しに出ます。
永禄12年(1569年)1月、三好三人衆や斎藤龍興らの軍勢は、足利義昭のいる六条の館(本圀寺)を包囲し、門前を焼き払い、寺中に侵入せんとしました(『信長公記』)。本圀寺に立て篭もるは、織田左近・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智十兵衛(光秀)・山県源内・宇野弥七といった人々でした。山県源内・宇野弥七は「若狭衆」(若狭国守護・武田義統の家来)でしたが『信長公記』はこの両人を「隠れなき勇士なり」と評しています。この2人は敵方の薬師寺九郎左衛門の旗本に切ってかかり、散々に戦い多くの者に手傷を負わせるも、ついに槍で突かれて討死するのでした。「火花をちらし」た戦いにより、織田方は敵を寄せ付けません。また細川藤孝・池田勝正の軍勢が後方に控えていると聞いた薬師寺九郎左衛門は織田方への攻撃を緩めます。
三好三人衆らが都に攻め入ったとの知らせは、1月6日に岐阜城に伝達されました。その時、もの凄い「大雪」が降っていたとのこと。しかし信長はそれを物ともせず、上洛することを命じ、早急に出立します。ところがその途中、馬借(馬を用いる運送業者)の者らが、過重の荷物を馬に負わせることになると言って、争いを始めるのです。信長は馬から下り、荷物を点検。「何れも同じ重さである。急いで出発の用意をせよ」と命じます。大雪により人夫ら数人が凍死するほどでしたが、信長は2日で都に到着しました。しかしその時には織田方の奮戦により、三好三人衆らの軍勢は撃退されていたのです。三好方は阿波から渡海し、堺に集結し、都に迫ったのですが、進軍が遅かったため、織田方に反撃の機会を与え、ついに敗退することになったのでした。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長』(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)