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大河「べらぼう」吉原遊廓を作った男の数奇な運命とその伝説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(freehand/stock.adobe.com)
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 大河ドラマ「べらぼう」第38回は「地本問屋仲間事之始」。徳川幕府によって公認された江戸の遊廓が「吉原遊廓」ですが、その吉原を作った男が庄司甚右衛門でした。甚右衛門の父は小田原の北条氏(後北条氏)に奉公していたとされます。しかしご存知のように後北条氏は天正18(1590)年、豊臣秀吉によって攻められて滅亡してしまいます。

 この時、甚右衛門は15歳の少年でした。甚右衛門の父は北条氏に仕えていたとは言っても重臣ではなく、僅かな扶持を貰っていた軽輩だったようです。一説によると甚右衛門の父は豊臣方との戦で果てたとのこと。更に悪いことにその時、甚右衛門は病気でした。よって父の家来の介抱を受けて、江戸方面まで出て来たようです。

 これまで甚右衛門と書いてきましたが、初名(幼名)は甚内と言いました。甚内から甚右衛門に改名した訳ですが、それについては次のような逸話が残されています。慶長11(1606)年といいますから、徳川秀忠が2代将軍となった翌年のこと。横山町に勾崎甚内という同名の「悪党」がおり、名前が一緒で紛らわしいということで、奉行所より改名を命じられたというのです。

 さて甚右衛門が武士の家に生まれたということについては異説もあります。甚右衛門は駿河国(現在の静岡県)吉原宿駅の亭主(主人)であったというのです(同説は信憑性は低いとされていますが)。江戸の繁栄を聞いた甚右衛門とその同業者25人は相談し、20代の女性たちを引き連れて江戸に向かい、そこで遊女屋を営んだということです。

 当時、甚右衛門は45・6歳。長老格であったので常々、皆は「おやじ」と呼んでいたとのこと。尊敬と親しみを込めてそう呼ばれていたように思われます。甚右衛門は正保元(1644)年に亡くなりますが「傾城屋」(遊女屋)に成り下がったことを恥じて、父の名字を一生、明かすことはなかったとも言われています。甚右衛門の先祖が代々、軽輩とは言え武士だったとするならば、甚右衛門が自分の代で遊女屋を営んだことを恥じる気持ちになったとしても不思議ではありません。

(主要参考文献一覧)
・東京都台東区役所『新吉原史考』( 東京都台東区、1960)
・中野栄三『遊女の生活』(雄山閣出版、1965)
・中野栄三『新版 廓の生活』(雄山閣出版、1972)
・小野武雄『吉原・島原』(教育社、1978)

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