日本サッカー界が生んだ不世出のストライカーで、1968年メキシコ五輪では得点王の活躍で銅メダルの原動力となり、Jリーグ・ガンバ大阪の元監督、元参議院議員の釜本邦茂さんが10日、肺炎のため大阪府の病院で死去した。81歳だった。釜本さんが当時67歳だった2011年に連載企画の取材でその半生について聞いた話の中から、プロリーグ発足前の日本サッカー界を盛り上げるために「ひと肌脱いだ」思いや昭和の伝説を振り返った。
「僕、ヌードになったことがあるんですよ」。釜本さんは、そう切り出した。ちなみに、一人称はいつも「僕」だった。
84年、釜本さんは日本サッカーリーグ開幕に向けたポスターで全裸になった後ろ姿を披露。この年はヤンマーでの現役最終年で、撮影当時は39歳。まもなく40歳を迎えようという年齢を感じさせない、筋骨隆々とした〝不惑の肉体美〟に添えられたキャッチコピーは「格闘技宣言」だった。
「まさに〝ひと肌〟脱いだわけです。男のヌードポスターが日本リーグのPRとして使われるという画期的な試みでした。当時、いろいろと報道されたこともあって話題にもなりましたね。あのコピーには、体と体が直接ぶつかり合うサッカーは格闘技や…という意味もあった」
当初は断ったが、プロスポーツとして日本に根付いていなかったサッカーへの関心度アップのため一念発起。文字通り、体を張った。当時、アジアでは韓国などの後塵(こうじん)を拝し、W杯出場など夢のまた夢だった時代。「昭和」ならではの豪快エピソードが数々あった。
遠征帰りの新幹線では車中で選手たちが酒盛りをしたという。
「ヤンマー時代、遠征帰りの新幹線の中でドンチャン騒ぎでしたからね。昔の日本リーグはナイターがなくて、昼の試合が終わるのがだいたい午後4時くらい。5時ごろホテルに戻って着替えて、6時くらいの新幹線に乗る。東京から大阪に帰る新幹線の中で、もうバッカン、バッカン飲んでましたよ。乗車前、マネジャーにお金を渡して缶ビールを24ケースくらい買って来させてね。それもなくなったら車中で買って飲んでね。『もう、ありません』と言われるまで飲んどりました。70年代は野球の広島カープか、サッカーのヤンマーか…いうくらい、まぁ、よう飲みましたわ」
代表戦でも宿泊先は旅館の相部屋。選手同士が集団で寝たという。
「東京で日本代表の試合がある時、渋谷の道玄坂を上がって、ちょっと右に入ったところ、ラブホテル街の裏側にあった日本旅館に泊まった。和式の畳部屋で、みんなで雑魚寝ですわ。今みたいに個室なんてありませんでしたよ。そして、試合が終わったらやっぱり飲んでました。今の代表選手が試合後に飲み歩いてたら(週刊誌などに)写真撮られるけど、僕らの頃はそんなこともなかったからね。ただ、アマチュアだから高い店に入るお金もなかったので、行くのは居酒屋とかスタンドの飲み屋。それでワイワイと自由にやってましたよ」
隔世の感がある。だが、サッカーにかける情熱は今も昔も変わらない。釜本さんのベースは恩師の教えにあった。京都・山城高校在学中に出会ったドイツ出身の指導者デットマール・クラマーさんだ。釜本さんは〝日本サッカーの父〟と称される名伯楽を「クラさん」と呼んだ。
「クラさんに教わったのは『止める』『走る』という基本やった。高校時代の僕は〝北海道の昼寝熊〟というあだ名を付けられてね。大きい体で、ノッソノッソと動いとったからでしょう。そんな僕に対して、クラさんは『もっと速く、パパパパッといかないかんぞ』という期待を込め、そう呼んで成長を促してくれたんやと思う。そうして(早稲田)大学生の頃には体の芯ができて速くなった」
クラマーさんは15年9月に90歳で亡くなった。生誕100年となる今年、愛弟子の釜本さんはこの世を去った。「クラさんから学んだことを踏まえ、僕なりの思いを子どもたちに伝えていきたい。サッカーと共に歩き、サッカーとは切っても切り離せない人生でしたから」。その言葉を思い出した。