NHK大河ドラマ「べらぼう」第5回は「蔦に唐丸因果の蔓」。平賀源内(安田顕)が事業に失敗し疲れ果てた様で、主人公・蔦屋重三郎のもとを訪れる場面が描かれていました。源内について基礎的な事柄を確認しておくと、彼は享保13年(1728)の生まれです。讃岐国(現在の香川県)高松藩の御蔵番の子として生を受けました。年少の頃から本草学(医薬に関する学問)や儒学を学び、宝暦2年(1752)頃には幸運にも長崎遊学の機会を得ます。
遊学後、学問への熱が更に高まり、源内は藩の役目を辞し、家督を妹婿に譲渡するのでした(1754年)。宝暦6年(1756)、故郷を離れ、江戸に旅立った源内は、本草家の田村元雄や林家の塾に学び、日本最初の薬品会(物産会。薬種・物産の展示)を発案。その後、何度も物産会を開催しています。高松藩に再度、召し抱えられることになる源内ですが、宮仕えは性に合わず、宝暦11年(1761)に辞職願を出すのでした。
一説によるとこの時、源内は高松藩から他家への奉公を禁じられたと言われています。源内が藩の役目を辞職しなければ、後に生活に困窮したり、哀れな最期を迎えることはなかったかもしれません。源内は戯作者・浄瑠璃作者でもありましたが、それは生活の資を稼ぐためでもありました。
源内は企業家的活動も行い、輸出用の陶器製作の計画、毛織物の試作、秩父の鉱山の採掘に手を出します。しかし鉱山事業は、源内の採鉱に対する知識が不十分だったこともあり失敗してしまいます。
安永3年(1774)、秩父鉱山は休山してしまうのでした。源内と言えばエレキテルの「発明」などにより「天才発明家」のように一般には思われているかもしれませんが、その生涯は失敗と挫折の連続だったのです。ちなみに源内はエレキテルを発明した訳ではありません。長崎で中古のエレキテルを入手。それを江戸に持ち帰り、修理・復原したのでした。
◇主要参考・引用文献一覧 ・城福勇『平賀源内』(吉川弘文館、1971)・芳賀徹『平賀源内』(筑摩書房、2023)