南北朝時代の永徳3年(1383)2月1日、後円融上皇(1359〜1393)は前代未聞の行為に及ばれます。上皇は三条厳子(内大臣・三条公忠の娘)との間に後小松天皇を儲けられていましたが、配偶者とも言うべき、その厳子の局(部屋)に「打ち入り」(乱入し)、刀の峰で滅多撃ちにするという暴挙に出たのです。その背景には次のような事情がありました。
その日、上皇は御湯殿(湯浴みの施設)に厳子をお呼びになります。ところが厳子は、袴と湯巻(湯に濡れることを防ぐために衣服の上から腰に巻いた裳)が手元にないことを理由として、すぐに参上しませんでした。これに怒ったのが、上皇です。そして前述の振る舞いに及ぶのです。刀の峰で何度も打ち据えられた厳子は流血。出血はなかなか止まらず、意識不明になったこともありました。翌日(2月2日)になって、やっと出血が止まるという状態でした。
上皇の母・崇賢門院が院御所を訪問し、上皇の気を引いている間に、厳子を御所から実家に帰らせます。父の三条公忠は娘を医者に治療させ、時の室町幕府3代将軍・足利義満も医者を派遣。こうして、厳子は一命を取り留めたのです。当時の公卿・一条経嗣をして「聖運の至極なり」(皇室の命運は尽きる)と嘆息させたこの一大事件が起きた理由としては、厳子が将軍・義満と密通しているのではと、上皇が疑ったからだとされています。
上皇は寵愛していた按察局をも追放していますが、それも義満と按察局が密通していることを疑ったためと思われます。「按察局と密通していません」とする誓文を義満が上皇に提出していることから、密通疑惑があり、上皇がそれにより、按察局を追放したことが分かります。
よって、三条厳子の場合もそれと同様の内情があったように考えられるのです。事件以前、既に上皇と義満の仲は悪化していましたので、その事も上皇の猜疑心を増幅させたものと推測されます。