大河『家康』小牧・長久手 激闘の末に“勝利”つかむも 圧倒的な兵力差で家康軍は苦境に 識者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
イメージです(tk2001/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第32話は「小牧長久手の激闘」。天下統一への歩みを進める羽柴秀吉(ムロツヨシ)と、徳川家康(松本潤)がいよいよ激突する、そうした様が描かれました。では、そもそも、なぜ両雄(秀吉と家康)は戦をすることになったのでしょうか。天正11年(1583)4月、秀吉は織田家の宿老であった柴田勝家を滅亡に追い込みます。これによって、織田家の当主の織田信雄(織田信長の次男)を秀吉1人が支える体制が完成するのです。勝家は信長の三男・織田信孝を推していました。

 ところが、今度は秀吉と織田信雄の仲が悪化していきます。三法師(織田信忠の子。信長の孫)の後見として、安土城に入った信雄ですが、秀吉により、すぐに同城から追われたことも、関係悪化の1つの要因だったようです(三法師は、近江国坂本城、そして秀吉のもとに移される)。一方、徳川家康は、信雄と接点を持ち、会見することもありました。

 例えば、天正11年(1583)正月18日には、2人は星崎(名古屋市南区)で会っています。とは言え、家康も秀吉の勢威を無視することはできず、同年5月には、秀吉のもとに使者(石川数正)を遣わし茶壺(初花肩衝)をプレゼントしています。賤ヶ岳合戦、勝家との戦いの戦勝を祝うものです。秀吉もまたその返礼の意味もあるのでしょう、浜松の家康に使者を派遣、名刀・不動国行を贈っています。そうしたなかにあって、秀吉と信雄の関係は益々、険悪となっていました。

 しかし、信雄は、さすがに独りで秀吉に対抗できる力はありません。そこで、信雄が頼ったのは、前々から接点があり、会見する仲であった家康でした。家康もまた信長の子である信雄を支持していました。こうして、家康は信雄と連携し、秀吉と対決することになったのです。天正12年(1584)3月6日、信雄は重臣の津川雄光・岡田重孝・浅井長時を「秀吉に内通した」との疑いで、居城の伊勢長島城で殺害します。これは、信雄の秀吉に対する宣戦布告といって良いものです。家康もまた3月7日には岡崎に行き、同月13日には、清須城にて、信雄と会談しています。家康の対応の素早さから見て、信雄との間に、事前に打ち合わせがあったことが分かります。

 いわゆる小牧長久手の戦いは、家康・信雄連合軍は、1万5、6千の軍勢。秀吉軍は6万(一説には10万)と言われています。秀吉は、大軍を率いて、大坂を出立します。そして、3月29日、小牧山に近い楽田(犬山市)に本陣を置いたのです。楽田に布陣した秀吉は、小牧山の敵勢を力攻めすることはありませんでした。

 『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、秀吉軍は柵や「二重堀」があるような「要害」を構えたのです。今回のドラマにおいては、徳川軍が一生懸命に堀を造るシーンが描かれていました。これは、同書によると、長篠の戦いにおいて、織田信長が武田勝頼を誘き出すために、馬防柵などを設けて防御の姿勢をとったことに倣ったと言われています。家康は、小牧山より、秀吉軍が二重堀の要害を造っている光景を見て「秀吉は我(家康)を勝頼と同じように思っているようだ」と微笑んだとされます。

 その後、秀吉は、三河・岡崎城を衝く作戦に出ますが、2万以上の軍勢(総大将・三好信吉、後の豊臣秀次)を派遣したにもかかわらず、秀吉軍別働隊の動きを察知した家康によって、急襲され、総崩れとなってしまいます。家康は、篠木(春日井市)の住民の通報により、秀吉軍別働隊の動きを知ったようです(『徳川実紀』)。

 秀吉方の池田恒興や、俳優・城田優が演じたことで話題となった森長可は戦死します。兵力差がかなりあったにもかかわらず、家康方はよく奮戦しました。しかし、最終的には圧倒的な兵力差が、家康・信雄連合軍を苦境に立たせることになるのです。

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