大河『家康』なぜ正室・築山殿が殺された?背景に「余程大きな出来事」謀反主導者の可能性 歴史学者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(K.Nakano/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第25回は「はるかに遠い夢」では徳川家康の妻・築山殿(瀬名、演・有村架純)の最期が描かれました。では、家康の妻・築山殿はなぜ殺害されなければいけなかったのでしょうか。

 ちなみに、家康と築山殿の子・松平信康は、天正7年(1579)9月15日、家康によって、切腹させられています。 築山殿はその前月29日には、既にこの世にいませんでした。同日、富塚(浜松市中区)において、徳川の者により、殺害されたと言われています。この2人(築山殿と信康)の死は、関連していると考えられます。信康はなぜ殺害されたのか。

 信康に家康への謀反の噂(『安土日記』)があったことからも分かりますように、信康は謀反を疑われるような状態だった。そして、築山殿も謀反を疑われている状態にあったと考えられるのです。築山殿は、家康と不仲であったとよく言われます。

 しかし、単に不仲であることが原因で、殺害にまで至るということはないでしょう。余程のことがないと殺害にまで至りません。信康の切腹にしてもそうです。信康が粗暴で、妻の徳姫と不和であったことが、一連の出来事の原因であるとする見解もありますが、それだけで殺してしまうというのは、明らかにやり過ぎです。

 武田信玄の嫡男・義信は、父と対立し、謀反を企み、幽閉されていますが(幽閉中に病死)、幽閉するという手もあったでしょう。しかし、それをせずに、妻子ともに殺してしまうというのは、何度も言うように、余程、大きな出来事があったと考えられるのです。とは言え、この「信康事件」の後に、信康方に加担して処罰されたという家臣はいません。築山殿と信康は、岡崎の家臣団を取り込んで、謀反を起こそうとは考えていなかったのではないでしょうか。

 かつての大岡弥四郎事件(1575年)の際、弥四郎は甲斐の武田勝頼と通じ、謀反を起こそうとし、処刑されました。この事件には、築山殿も絡んでいたとの説もあります。もし、本当に、築山殿が謀反人と絡んでいたならば、この時に殺害されてもおかしくはなかったのですが、なぜか、そうはならなかった。が、築山殿は弥四郎事件後も、武田方と通じる環境が残されていたのではないか。

 そして、天正7年(1579)にそれが明らかになったのではないか。築山殿と信康、どちらが謀反を主導したのかは不明ですが、築山殿が先に殺されているので、築山殿が主導していた可能性が高いのではないでしょうか。

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