大河『家康』服部半蔵、参上!半蔵は本当に忍びの者だったのか? 歴史学者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(Paylessimages/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第5回「瀬名奪還作戦」(第6回もその続編「続・瀬名奪還作戦」)では、山田孝之さん演じる服部半蔵と、松山ケンイチさん演じる本多正信が登場し、ネット上で話題となりました。服部半蔵というと「忍者」というイメージが強いかもしれませんが、果たしてその「正体」はどのようなものだったのでしょう?

 ちなみに「どうする家康」HPには半蔵の紹介文は「先祖が忍びの郷・伊賀出身なので、忍者とよく間違えられる。本人は武士と思っている。そんな自分にプライドが持てず、人づきあいが苦手」と記載されています。

 半蔵正成は天文11年(1542)に生まれたと言われています。徳川家康の生まれ年も諸説あるものの、同年と言われており、ほぼ同い年ということになります。さて、半蔵の父は、服部保長で、伊賀国阿拝郡の出身。保長は伊賀を出て、足利義晴(室町幕府12代将軍)に仕えていたと言われます。その後、保長は三河国に赴き、松平氏に仕えることになります。半蔵の父・保長については不明な点が多いですが、忍びの役割を果たしていたのではと推測されています。

 半蔵正成は、保長の5男として生まれるも、父の後継となります。そして、家康に仕えて、姉川の戦い(1570年)・三方ヶ原の戦い(1573年)で活躍したとされますが、半蔵正成が忍びであったことを示す確かな史料は残されていません。

 江戸時代後期に徳川幕府が編纂した武家系図集『寛政重修諸家譜』には、半蔵16歳の時、初陣し、三河・宇土城(上之郷城。城主は今川方の鵜殿長照)攻めに参加。伊賀の忍びを多数率いて、城内に潜入。活躍して、家康から槍を頂戴したとされますが、この逸話は疑わしいと言われています。後の話となりますが、家康が江戸に入る(1590年)と、半蔵は旗本になり、江戸城麹町口門(半蔵門)外に屋敷を貰います。

 「半蔵門」は、服部半蔵の屋敷があったことに由来するのです。半蔵は、慶長元年(1596)11月に亡くなります。半蔵正成が忍者であったか否かは別として、正成の時代に服部家が伸長していったことは間違いありません。

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