北野武監督の6年ぶりとなる新作映画「首」(今秋公開)の完成が4月に発表され、5月開催の仏カンヌ国際映画祭プレミア部門に選出されたこともあって、改めて北野映画が注目されている。その北野監督の16作品で撮影監督を務めた柳島克己氏のトークイベントが5月3日に東京・渋谷の「光塾COMMON CONTACT並木町」(午後3時開演)で開催される。柳島氏がよろず~ニュースの取材に対し、これまでの活動を振り返り、今回の企画に向けて思いを語った。
同イベントは2020年3月に亡くなった映画撮影監督・仙元誠三氏のメモリアル企画で、仙元氏の撮影助手を長く務めた柳島氏が出演。柳島氏は1950年生まれで、『セーラー服と機関銃』(81年、相米慎二監督)など角川映画の名作やセントラル・アーツの松田優作さん主演作などで、師・仙元氏と共にカメラを回した。
柳島氏は北野組のメインカメラマンでもあった。北野監督2作目の『3-4X10月』(90年)を皮切りに、『あの夏、いちばん静かな海。』(91年)、『ソナチネ』(93年)、『キッズ・リターン』(96年)、『菊次郎の夏』(99年)、『BROTHER』(00年)、『Dolls』(02年)、『座頭市』(03年)などから『アウトレイジ』3部作(10、12、17年)まで、北野監督の全19作品中、16作品を撮影。その柳島氏に話を聞いた。
-まず、映画にとって撮影監督とはどのような存在なのでしょうか。
「撮影監督は監督がイメージする映像を、監督の代弁者として映像に具現化する存在だと思っています。よく『フィルムで撮影した時代は良かった』と言いますが、全てキャメラマンが最終仕上げまで責任を持って担当した、今ではあまり味わえない楽しい時代もありました。だが、映画の撮影スタイルはテクノロジーの発達と共に変化していき、また違う表現ができます」
-北野映画では独特の色彩表現が「キタノブルー」と称されてきましたが、特に顕著な『ソナチネ』を撮影した時はどのような現場でしたか。
「『ソナチネ』を撮った頃は、セリフが書き込まれている台本がなく、北野監督もその時々でセリフを作り、そのやり取りの中から、カメラポジションやレンズや色調を決めながら撮っていました。北野組の撮影スケジュールは監督のテレビ出演の関係もあり、隔週で撮影が行われます。当時はフィルム撮影なので沖縄には現像所がなく、すぐには見ることができず、東京に戻って見ると撮影前に想像していた時とは違う映像を楽しんでいました。そんな中から『キタノブルー』の元が生まれたと思っています」
-『スーパーの女』(96年、伊丹十三監督)や『バトル・ロワイヤル』(00年、深作欣二監督)、02年の日本アカデミー賞で最優秀撮影賞を獲得した『GO』(01年、行定勲監督)といった話題作の現場で経験した思い出は?
「『スーパーの女』はセカンドユニット(※主要な俳優が登場しない場面を撮影する第2班のチーム)といって、トラックの走りの撮影しかやっていなくて、伊丹監督ともほとんど一緒になる事もありませんでした。『バトル・ロワイヤル』は『楽しいがキツイ』『撮影現場の予算がない』『暑い』の三重苦を耐えさせた映画で、いまだに『つい最近撮った』ような気がします。当時、深作監督はガンを患っていましたが、撮影が始まるにつれ元気になっていき、深作さんは『本当にガンを克服した』と思っていました。『GO』は『バトル・ロワイヤル』の撮影のすぐ後に撮った映画で、行定監督は撮影スタイルも演技の付け方も深作さんとは対照的だった」
-今回のイベントに向けて。
「映像化するためのいろいろな過程の話ができると面白いと思っています。それと、コロナ前まで中国映画やイラン映画など海外で映画を撮ることが増えてきました。日本映画の撮影監督は世界的に見て独自のスタイルで撮影を行っています。その辺の違いの話もできると、さらに撮影監督の話に興味を持ってもらえると思っています」
司会を務める作家で映画監督の山本俊輔氏は、柳島氏について「非常に鷹揚(おうよう)でフレキシブルな方なので、まだ新人だった北野監督にとっては女房役として、とてもやりやすいカメラマンだったのでしょう。北野監督の世界観確立に寄与し、その後の大部分の作品を支えられたことが大きいと思います。柳島さんの映像が北野映画とマッチしたのは、作品内容の透明感や淡い死生観にも共通する雰囲気があったからではないでしょうか。それは特に『キッズ・リターン』までの初期作品に顕著だったと思います」と解説を加えた。
本番に向け、山本氏は「師匠・仙元さんの思い出、北野作品の現場、『バトル・ロワイヤル』などの話題作、『あぶない刑事』のテレビシリーズ&劇場版、最近の海外で撮影した作品についての5パートに分けてお話をうかがう予定です。後日、収録配信も行いますのでご利用ください」と告知した。