大河『家康』一揆で揺れる家臣団に家康もショック! 真っ先に出陣した姿が運命分けた? 歴史学者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(freehand/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第8回「三河一揆でどうする!」では、一揆を武力で抑え込もうとする家康(松本潤)に対し、松平昌久(角田晃弘)など周囲の領主や、家臣の夏目広次(甲本雅裕)までが裏切るという様が描かれていました。では、家康と一揆勢との争いは、どのように展開していったのでしょうか?

 1563年12月、徳川家康を窮地に陥れる「三河一向一揆」が勃発しますが、それより以前、西三河においては、今川氏の勢力が家康に対して敵対。家康はそれへの対応にも追われることになります。東条城(愛知県西尾市)の吉良義昭や六栗城(愛知県額田郡幸田町)の夏目吉信らが家康に反旗を翻したのです。

 家康は、東条城を攻め、これを攻略しますが、一難去ってまた一難。三河一向一揆が起こるのです。親族である松平家の者(松平家次や松平昌久)にも一揆方に付いた人もいました。

 それだけではなく、家康の家臣のなかにも、一揆に与する者もいたのです。これは、家康にとり、それは大きな衝撃・打撃だったでしょう。一向宗の門徒の家臣(渡辺守綱・渡辺政綱、石川正俊など)が一揆方に付いたのです。

 後に家康の謀臣となる本多正信(松山ケンイチ)も、一揆方となりました。もちろん、家康に味方する家臣もいて、石川数正、本多忠勝らは家康方でした。家康が駿府にいた頃より、側で従っていた家臣は、この時、家康側に付く傾向にありました。

 家康と一揆勢は戦いを繰り広げますが、『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には興味深い現象が記されています。一揆方は家康方の砦を攻めるのですが、真っ先に出陣してきた家康本人の姿を見ると「早く引け」と退却していったというのです。

 一揆勢は「主君」(家康)の姿を見ると、すぐに引き上げていくような状態だったのでした。家康に歯向かったものの、仕えていた家康に槍を向けるのは忍びない。そうした感情が、家康に仕えていた「家臣」たちに渦巻いていたのでしょう。

 とは言え、一揆勢が「軟弱」だったというわけでもなく、家康方と激戦を展開することもありました。両者の勝敗の決着はなかなか付かず、一進一退の状況が続くことになります。

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