大河『家康』家臣分裂の危機も!三河一向一揆なぜ起こった?“複雑な事情”を識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(freehand/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第7回「わしの家」では、家康三大危機の1つと言われる「三河一向一揆」編に突入しました。三河一向一揆について触れる前に、この時代の一揆の「恐ろしさ」について見ていきましょう。

 一向一揆というのは、三河のみならず、例えば15世紀後半に、加賀国(今の石川県)でも起こっています。この加賀一向一揆は、一向宗を弾圧する加賀国の守護大名であった富樫政親を自害に追い込み、ついには、本願寺門徒による加賀国の支配を実現させました。こうしたことは、権力者、大名にとっては脅威だったでしょう。

 また、織田信長は、比叡山延暦寺を焼き討ちしたことで有名ですが、なぜ、信長は延暦寺を焼き討ちしたのか?

 それは、信長に敵対した大名である浅井氏・朝倉氏に延暦寺が味方したからなんですね。中立を守らず、敵対する大名に味方する。延暦寺だけではなく、信長を苦しめた石山本願寺もそうでした。戦国武将にとって、宗教勢力の警戒すべきところは、主にそういった点だったと思います。

 では、家康を苦しめることになるこの一揆はなぜ勃発したのでしょうか?『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書。以下、『実紀』と略記)には「御家人等、佐崎の上宮寺の籾をむげに取り入れたる」によって、一向宗の門徒たちが蜂起したと記されています。上宮寺は、愛知県岡崎市上佐々木町にある寺です。

 つまり『実紀』には、家康の家臣が、上宮寺に押し入り、強引に兵糧を徴収したことが、一揆勃発の要因だと記されているのです。一方、『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の自伝)には『実紀』とは異なる一揆勃発の要因が書かれています。野寺(本證寺。愛知県安城市にある真宗寺院)の寺内に犯罪者がいたのを、酒井雅楽助(政家)が押し入って、捕縛。これが契機となって、門徒衆が集まり、一揆を起こしたというのです。一向宗寺院の不入権を侵害したことが要因ということでしょう。

 これまで見てきたように、一揆の発端となった場所は、2説(上宮寺、本證寺)あるのです。勃発の要因については、一向宗寺院の不入権を侵害したことにあると言えます。家康側は、本願寺の教団が握る水運や商業などを我が物にしようとして、一揆をあえて引き起こそうとしたのではないかとの説もあります。

 しかし、時は恰も、三河国の統一があと一歩のところまで迫っていた頃。松平家の家臣団を分裂させる危険を犯してまで、家康がそのような所業に及ぶかは疑問としなければなりません。徳川氏創業の事績を記した家伝『松平記』には、菅沼定顕が上宮寺に行き、籾を取って帰城。

 不入の地への狼藉は許せぬとして、上宮寺などは土民をもってして、雑穀を取り返すなどの騒動が記されています。諸書を見るに、やはり兵糧米の徴収に絡んで一揆が勃発したと思われます。家康は、今川方との戦を約3年、繰り広げてきました。よって、兵糧米が欠乏していたと考えられます(その状況は、永禄の飢饉により、悪化の一途を辿っていたと思われます)。

 家康側は、三河の一向宗寺院から兵糧米を徴収しようとして紛争となったことが、一揆勃発の原因となったのですが、家康の家臣のなかには、一向宗の信者のものが多くいました。三河統一に向けて奮戦してきた家臣団ですが、ここに来て、分裂してしまうのです。それは、家康の大きな苦難の1つの始まりでした。

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