大河『家康』三河平定戦で家康は頼りなくなかった!? 家臣と戦に戦を重ねる姿も 識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
イメージです(tk2001/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第3回「三河平定戦」では、岡崎に戻った家康(松平元康、演・松本潤)が信長に戦いを挑むが歯が立たず、今川義元の後継・氏真は家康に援軍を寄越さず、窮地に陥るといった様子が描かれました。桶狭間の戦い(1560年5月)で敗れた今川方は、尾張国の城(大高城や沓掛城など)から撤退していきましたが、全ての今川勢が敵(織田信長)に背を向けた訳ではありません。

 鳴海城を守備していた岡部元信などは、信長と戦い、降伏こそしましたが、今川義元の首を織田方から貰い受けた上で、駿府に帰ったのでした。「どうする家康」では、義元の首は、槍の穂先の括り付けられ、放り投げられるという無惨な扱いを受けていましたが、実際には丁重に送り返されたのです。岡部元信のこの功績は『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)において「立派なこと」として称賛されています。

 同書には岡崎城に入った家康は「駿河(今川)と手を切り」と記されていますが、本当は事はそう単純ではありません。家康が駿府に帰還することがなかったのは事実ですが、家康は今川方として、織田方と戦うことになるのです(1560年7月には、苅谷の水野信元と尾張で交戦)。今川氏真も、家康が岡崎城に留まることを認めていたように思います。家康まで岡崎を撤退したら、いずれ、織田の手に落ちた可能性もあるでしょう。家康は織田方と交戦するだけでなく、西三河の制圧に精を出すことになります。今川方の西三河からの撤退が早かったということもあり、制圧は順調に進みます。

 しかし、西尾城や東条城(何れも西尾市)の攻略は年内に行うことはできませんでした。さて『徳川実紀』(江戸幕府の公式史書)には、家康は今川氏真に対し、義元の弔合戦をするように勧めていたとあります。「信長は勝ちに驕っているはず。その不意を突けば、味方の勝利は疑いなし。一日も早く軍勢を遣わされたならば、この家康も手勢を率い、矢の一筋も射て、義元様の旧恩に報いましょうぞ」と。しかし、氏真はその志なく、仏事に日を送っていたとされます。今川方に付いたままか、それとも…家康の決断の時は迫っていました。

 今回も「妻子のいる駿府に帰りたい」 と泣き出す少し頼りない家康が描かれましたが、三河平定戦の頃の家康にそうした頼りなさを示すものはありません。家臣と共に、戦に戦を重ねる様が、例えば『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には記されています。

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