大河『家康』義元討死の報に家康は冷静だった!? 岡崎城行きをためらった意外な理由

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
岡崎城にある徳川家康像と竹千代像(hanafujikan/stock.adobe.com)
岡崎城にある徳川家康像と竹千代像(hanafujikan/stock.adobe.com)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」第2回「兎と狼」では、織田信長軍に包囲され、絶体絶命の元康が大高城を捨て、妻子(妻・瀬名、築山殿=有村架純)が待つ駿府に帰ろうとする姿が描かれました。

 しかし、家臣らは三河に帰りたいと元康に猛反対。元康は渋々、三河岡崎に向かうという内容でした。では、史書には、元康の行動はどのように記されているのでしょうか。 

 永禄3年(1560)5月19日、今川義元は、桶狭間において、織田信長の軍勢に討たれてしまいます。今川方の部将だった松平元康(後の徳川家康)は、義元の周辺にはおらず、大高城(名古屋市緑区)で、兵士たちを休めていました。「義元討死」の報は、元康にとり、衝撃だったでしょう。しかし『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)からは、元康の動揺は見えてきません。元康の周りにいた家臣は、義元が戦死したならば「早くここを引き払った方が良いでしょう」と元康に勧めたといいます。

 が、元康は、義元戦死に関する確実な情報が上がってこないとして、大高城を動くことに拒否反応を示すのです。もし、義元が生きていた場合、大高城から退却などしたら、義元に顔合わせできないというのです。人にも笑われてしまうだろうと感じたようです。武将としての名誉を重んじたと言えましょう。

 「確実な情報が入るまでは退却しない」 という頑なな態度を示す元康のもとに、外伯父の水野信元から使者がやって来ます。信元は「明日にも信長の軍勢がここにもやって来るだろうから、早く退却されよ」と元康に勧めたのです。親族の勧めもあり、元康は大高城を退く決断をします。

 大高城を出た元康が向かったのが、松平氏の菩提寺である大樹寺(愛知県岡崎市)でした。元康の父祖の城・岡崎城には、未だ今川の将兵・軍勢がおりました。彼らは早く元康に岡崎城を引き渡し、退却したかったようですが、元康は今川家に義理立てして、なかなか引き受けようとしなかったようです。

 『三河物語』のこの逸話からは、元康の義理堅い性格を窺うことができます。そうこうしているうちに、痺れを切らした今川勢は、岡崎城を開け放ち、退いていきます。そこでやっと、元康は「捨て城ならば拾おう」と言って、城に入るのでした。同年5月23日のことでした。

 人質として駿府に送られてから、約10年。19歳の元康は父祖の城にやっと戻ることができたのです。主君を岡崎城に入れるとい う悲願を達成した松平家臣(譜代衆)は「めでたいことだ」と大いに喜びました。だが、家康は駿府に妻子を残したまま。家康と妻・築山殿はいつどのような形で再会する事ができるのでしょうか。

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