『鎌倉殿』北条時政とりく「実朝廃立事件」の真相 まるで“失楽園”のような鎌倉追放 歴史学者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(Paylessimages/stock.adobe.com)
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 梶原景時・比企能員に続き、畠山重忠も、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台から去っていきました。畠山重忠の乱の要因については、北条時政と牧の方(りく)の謀略であり、その契機は、平賀朝雅の牧の方への讒言というのが、『吾妻鏡』(鎌倉時代後期、北条氏の政権下で編纂された歴史書)の見解です。

 しかし、単なる讒言(悪口)が契機となったというよりは、本当は、武蔵国をめぐる北条氏と畠山氏の暗闘が乱の引き金になったと推察されます。

 畠山氏は、武蔵国の留守所総検校職の地位にあった。同国の武士を統率する権限があり、大きな権力があったのです。しかし、武蔵国の国司は、北条時政の娘婿・平賀朝雅であり、朝雅が京都守護として都にのぼった後は、親族の北条時政が武蔵国の国務を担っていました。

 ですから、乱の背景には、武蔵国を巡る、北条氏と畠山氏の主導権争いがあったと思われます。乱が北条氏の勝利に終わることにより、武蔵国は北条氏が掌握することになります。畠山の所領は、北条氏に加勢し、勲功があった者たちに分与されました。

 ところが、畠山の乱から2カ月ほど後に、またもや大きな政治変動が起こります。北条時政と牧の方が鎌倉から追放されたのです。なぜか?『吾妻鏡』によると、牧の方が、策謀を巡らせて、平賀朝雅(北条時政と牧の方の娘の夫。源氏の一族)を新たな将軍にしようとしたからだというのです。時政もそれに絡んでいた。

 朝雅が将軍になるということは、三代将軍・源実朝を廃するということになります。当然、実朝の母・北条政子はこれを容認することはできません。政子の弟・北条義時も同様でした。

 時政らの陰謀を察知した政子は、実朝を義時の邸に避難させます。時政が呼び集めていた兵士たちも、義時方に付きました。これにより、時政の陰謀は失敗に終わるのです。そして、時政は出家。時政夫妻は、その翌日(1205年閏7月20日)、鎌倉から伊豆国に追放されます。

 神につくられた最初の人間であるアダムとイブが悪魔に誘惑されて楽園にある禁断の木の実を食べ、楽園から追放される「失楽園」。時政と牧の方の行動は、そんなことを連想させます。

 時政は二度と権力を握ることなく、1215年に伊豆で病で亡くなりました。牧の方は、時政の死後は、都で暮らしたようです。

 1226年には、都にて、時政十三回忌の法要が営まれています。牧の方は法要の後に、妊娠中の孫娘などを引き連れて、天王寺に参詣。牧の方の孫娘は冷泉為家に嫁いでいたのですが、為家の父で歌人として有名な藤原定家は「身重の女性を連れて行く」ことへの不満を日記『明月記』に記しています。牧の方はかなり逞しくパワフルな女性だったのでしょう。

 さて、『吾妻鏡』は、今回の陰謀事件の首謀者を牧の方一人に帰していますが、そこは「本当か?」と疑ってかかる人もおります。北条時政が主導したのではないかとの説、牧の方の意向があったとしても時政が最終的に実行を判断したのだから時政にも責任があるとの意見もあります。『吾妻鏡』は、北条氏の礎を築いた時政を擁護するために、あえて、牧の方に全責任を押し付けている可能性もあるのです。

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