1203年9月2日、比企能員は、北条時政の邸で殺害されてしまいます。そのことを知った比企一族の者たちは、一幡(二代将軍・源頼家と比企能員娘の子)の館に入り、北条氏と一戦交える構えをとります。北条方がそれを見過ごすはずはありません。
北条義時や泰時・三浦義村・和田義盛・畠山重忠・加藤景廉・仁田忠常らの軍勢は、すぐさま比企一族が籠る館を襲撃。大軍であったので、館はすぐに落ちるかと思いきや、比企方の防戦は激しく、後退する北条方の兵士も多数。新手の兵でもって攻めるという有様だったようです。とは言え、多勢に無勢。いつまでも防ぎきれるものではありません。「もはや、これまで」と観念し、一幡の前で自決する者、女性の着物をきて女装し、館から逃げ出す者、そこには様々な人間模様がありました。
同日から翌日(9月3日)にかけて、比企の残党の探索が行われ、ある者は流罪に、ある人は死刑にというふうに、残酷な処断が行われます。能員の妻妾と2歳の男子は、囚われ、和田義盛に預けられた後、安房国(千葉県南部)に配流となります。
『吾妻鏡』(鎌倉時代後期編纂の歴史書)では、一幡は、邸で焼死したように書かれていますが、実は母(若狭局)とともに逃げ出していたようです。が、北条氏の追及から逃れることはできず、その年の11月、北条義時の郎党により殺害されてしまうのです(鎌倉時代初期の僧侶・慈円が記した書物『愚管抄』)。
9月4日には、源頼家の側近(小笠原弥太郎・中野五郎能成・細野兵衛尉)らが逮捕・監禁されます(『吾妻鏡』)。比企氏と親しくしていたこと、先日の合戦で、比企能員の息子と一緒にいたことが理由のようです。
比企能員を滅ぼし、源頼家も病で重体…後は「千幡(頼家の弟)を鎌倉殿に」と北条時政はほくそ笑んだでしょう。しかし、重体だった頼家が回復してしまうのです(9月5日)。そして、比企一族が滅亡してしまったことを知り、激怒。時政を討つように、和田義盛と仁田忠常に命じます。が、義盛はその命令書を時政のもとに渡してしまうのです(しかも、頼家からの使者を殺害してしまったと言います)。
一方、仁田忠常(ティモンディ・高岸宏行)は9月6日の夜、北条時政の邸に呼び出されます。ところがいつまで経っても忠常は邸から出てこない。心配した忠常の親族は「頼家様から、時政殿を殺すように、忠常に命令が出たことがバレてしまい、殺されてしまったのだろうか」と疑い、復讐のため、北条義時を襲撃しようとしますが、返り討ちにあう。
肝心の忠常は無事で邸から帰る途中で、一連の騒動を聞き「このようなことになってしまったら、命を捨てるしかないではないか」と言い、御所に参るところを、加藤景廉により殺されてしまったのでした。まことに不運な最期というべきでしょうが、比企能員の変の余波は思わぬところに波及したともいうべきでしょうか。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」における北条義時(小栗旬)も、比企の変前後から、更に残虐性を増してきました。かつての純真な眼差しはどこへやら、かなり陰惨な目付きに変貌しています。この眼差しの変わりように、小栗旬という役者の凄みを見たように感じます。
今回、源頼家の幼い息子・一幡を殺害しようとする場面では、あの冷酷と思われた暗殺者・善児をも戸惑わせるほどでした。義時の息子・泰時も父の行動は理解不能のようで、詰る場面もありました。いよいよ、完全に闇落ちした義時。これから、更にどのような殺戮を繰り広げていくのでしょうか。