源頼朝とその異母弟・義経の関係が最終的には破局し、義経が追い詰められていくことは多くの人が知っていることです。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、好戦的・サイコパスな義経が描かれてきましたが、第19回「果たせぬ凱旋」まで来て、菅田将暉演じる義経が「良い人」キャラに変貌した事もあり、頼朝に追い詰められる義経への同情が集まってきたようにも思われます。
では、頼朝は義経のどのような行動に嫌悪感を抱いたのでしょうか?
義経が兄・頼朝に宛てて書いた有名な腰越状は、後世の創作であり、義経は腰越に足止めされていなかったと言われています。腰越に足止めされたという事が、冷淡・冷酷な頼朝、かわいそうな義経というイメージを創り上げてきた一因だと思うのですが、両者は対面していたという説が最近では有力です。
頼朝と義経は実は対面しており(延慶本『平家物語』)、その直後の頼朝の対応を見ても、義経が政治的に排除されたということはなく、この時は、完全なる破局には至っていなかったと思われるのです。とは言え、前掲の『平家物語』には、頼朝と義経の対面は「打ち解けた様子もなく、言葉は少なかった」と記していますので、ある程度の緊張状態にはあったように感じます。
では一体、頼朝は義経の何に怒っていたのか。これまでよく言われてきたのが、いわゆる「義経の自由任官」問題です。1184年8月6日、義経は朝廷から左衛門少尉・検非違使に任命されます。検非違使は京都の治安維持や裁判などを担う役職です。
『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)によると、義経は、この任官を自ら希望したわけではないようです。朝廷の方が、義経の数々の勲功(木曽義仲や一ノ谷での平家討伐。屋島の戦いは翌年1185年)を賞するという形で宣下されたものであったのです。義経はそれを断ることはできなかった。
これに激怒したのが、鎌倉の頼朝。自分(頼朝)の推薦もなく、勝手に任官したからです。『吾妻鏡』には「義経が頼朝の意向に反いたのは今度だけではないとして、義経を平家追討に派遣することを見合わせた」とあります。あくまで同書によると義経はこれまでにも、頼朝の癪(しゃく)に触れることをしていたようですが、それが何かは分かりません。
頼朝は「合戦の恩賞については、頼朝が推薦する」との意向を示していました。朝廷(院)が勝手に武士らに恩賞を与えることを抑止し、部下が朝廷に結び付くことを防ごうとしたのです。義経の今回の行動は、その意向に反いたことになります。『吾妻鏡』は、義経の自由任官問題が、兄弟(頼朝と義経)対立の発端となるような描き方をしています。
だが、義経はその後も昇進を続けています(従五位下に昇る。殿上人にもなる)。それを頼朝が制止した形跡はありません。よって、頼朝と義経の間に「自由任官」をめぐる対立はなく、『吾妻鏡』の前述の記述は虚構とする見解もあるのです(義経の平家追討見合わせもなかったとする)。
また、義経の自由任官は後白河法皇が義経を籠絡し、頼朝と対抗させようとしたとも言われていますが、1184年の時点において、後白河院の眼目は、平家追討であって、そのような時に官軍(頼朝軍)の内部分裂を図ろうとしたとは思えません。そのようなことで、頼朝と義経が対立する原因は、別の時、理由は他にあったことになります。それが一体何かは、また別の機会に触れたいと思います。