「鎌倉殿の13人」壇ノ浦で“義経軍”が電撃的勝利 潮流の変化、船漕ぎ殺し戦法だけでない要因とは

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
写真はイメージです(sunasuna3rd/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第18回は「壇ノ浦で舞った男」でした。

 1185年2月、菅田将暉演じる源義経は屋島の合戦で平家軍を破ります。屋島の戦いで、平家軍を破った源義経の使者が鎌倉に到着します。それによると、義経は2月17日、僅か150騎余りの軍勢を率いて、暴風の中、阿波国に渡り、平家方の武士と合戦、これを打ち破る。その後、義経は屋島に向かうのだが、使者は合戦の帰趨を見ずに出立したところ、播磨国において、屋島方面から黒煙が上がっているのを見て、味方(源氏)の勝利を確信したのだという(『吾妻鏡』)。

 当時の貴族・九条兼実の日記『玉葉』には、義経が屋島西方の塩飽島を急襲したところ、平家軍は戦わずに退却したとあります。義経軍の電撃的な勝利だったと言えるでしょう。

 平家は屋島を離れ、もう一つの拠点である長門国(山口県)の彦島に追い詰められていくのです。義経は、熊野水軍や河野水軍を味方につけ、長門国に向かう。更には、周防国で五郎正利(国衙の船所)から兵船数十艘の提供を受ける。そして源範頼(頼朝の異母弟)の一部隊であった三浦義澄の軍勢も義経軍に合流。範頼軍は豊後国(大分県)にいたので、平家軍は九州に逃げることも困難で、まさに袋のネズミ状態でした。平家が壇ノ浦で滅亡したのは、範頼軍が九州に控えていたからといえましょう。

 ちなみに、北条義時はこの範頼軍に属しており、壇ノ浦の戦いには参加していません。義時は、九州での戦いにおいて、敵の首をとる等の武功は立ててはいません。

 さて、そうした状況において、3月24日、ついに長門国の壇ノ浦において、源平最後の戦いが始まるのです。『平家物語』には義経軍三千艘、平家軍千艘、『吾妻鏡』には義経軍八四〇艘、平家軍五百艘とあります。

 戦いは最初、潮流が源氏方に不利で、平家に有利だったとされます。それが午後になり、潮の流れが変わり、形勢は逆転。義経が平家軍の船のを漕ぐ者を討ち取るという戦法をとったことにより、源氏の勝利となったと言われています。

 潮流の変化が源氏の勝利の要因とされていましたが、合戦があった時間帯は、潮流が落ち着いていたという説もあります。また、義経の軍船の船漕ぎ殺し戦法も、平家の敗色が濃くなってからのことです(『平家物語』)。ですから、この戦法が源氏の勝利に直接大きく影響していたとは言えないでしょう。

 それよりも、阿波国の豪族・阿波成良(しげよし)の裏切りに象徴されるように、四国や九州の多くの豪族が、平家を離れ、源氏に味方していたことが、勝敗を分けたように思います。熊野水軍や河野水軍も源氏に味方していました。そのような状況でしたので、戦いはある意味、始まる前から結果が見えていたと言えるかもしれません。敗色濃厚となった平家の人々は、次々と討死するか自害、入水したりしていきました。

 亡き平清盛の妻・時子は8歳の安徳天皇を抱き、入水。三種の神器の一つの宝剣は海中に沈んでいきます。こうして、かつて栄華を誇った平家も滅亡するのです。追い込まれて悲劇的な結末となったのも、源範頼軍が九州に控えていたことや、義経軍が瀬戸内の制海権を握っていたこと、四国や九州の豪族の多くが源氏に味方していたことが大きいでしょう。

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