俳優の宝田明さんが3月14日に都内の病院で肺炎のため亡くなったことが18日、分かった。87歳だった。1934年、日本統治下の朝鮮に生まれ、旧満州(現中国東北部)のハルビンで育った宝田さんは日本の敗戦となった45年8月、ソ連軍兵士に銃撃された原体験を心に刻み、「不戦不争」という言葉を掲げて反戦を訴えてきた。くしくも、ロシア軍のウクライナ侵攻が泥沼化する時期にこの世を去った宝田さん。生前、記者の取材に対して明かした戦争体験、その思いや人柄を振り返った。
2020年7月、ドキュメンタリー映画「沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」でナレーターを務めた宝田さんを都内で取材した。当時86歳の宝田さんは多くの民間人が犠牲となった沖縄戦を、自身の戦争体験に重ねた。「8月15日の翌日からハルビンは無政府状態となりました。私はソ連軍入城から、強盗、略奪、強姦…といった行為を目の当たりにした少年です」と証言した。
満鉄の社宅で家族との夕食時、部屋に乱入してきたソ連軍兵士たちに自動小銃を突き当てられた。「(恐怖から)口の中で歯の音だけがガタガタと鳴った。震えて歯がかみ合わないのです。彼らは室内を物色し、時計などを奪って出て行きました」。また、同じ社宅に住む日本人女性がロシア人兵士にレイプされる現場も目撃した。大日本帝国の将校、役人、満鉄の上層部、警察官らは真っ先に逃げ、故郷の街は無政府状態に。庶民を見捨てた「昨日まで威張っていた日本のエラい人たち」への失望、ソ連軍の蛮行に恐怖する日々の中、軍国少年だった宝田さんの価値観は根底から揺らいだという。
そして、ロシア人兵士に狙撃され、銃弾が肉体にめり込んだ。シベリア抑留される日本兵が乗せられた貨車を見つけた宝田さんが「その中に兄がいるかも」と近づいた瞬間だった。
「ダダダダダダッ!とソ連兵が撃ってきた。私は転がるように四つんばいで逃げ、中国人の家に隠れたりして、ほうほうのていで帰ってきたら体が血だらけになっていた。弾が大地に1回バウンドして右脇腹に入ったようなのです」。病院はすべて閉鎖されていた。3日目には傷口が化膿したが、家の常備薬はオキシドールとかヨウチンしかない。元軍医を呼び、麻酔をせず、裁ちはさみがメスの代用。当時11歳、想像を絶する激痛を伴う手術に耐えた。
「私はベッドに縛り付けられ、裁ちばさみを熱く焼いて消毒。麻酔もせずに、元軍医さんは、はさみで脇腹を十字に切って弾丸を取り出した。『歯を食いしばって頑張れ、日本男児だろ』という声を聞きながら、半分失神しかけ、それでも人間の肉を切る音は今も耳に残っています。ラシャの生地を切るみたいにジョリジョリと…。私の手足が縛り付けられたベッドの鉄柵は、もがき苦しんだ力によってゆがんでいました。ダムダム弾という国際法で使用が禁止されている鉛の弾。すぐ腐り、鉛の毒は体内ですぐ化膿する。75年間、今も天候によって傷口が痛みます」
一命を取り留めたものの、その傷跡は生涯残った。「軍国少年は1945年の8月にガシャンとエンストを起こして生まれ変わった」。記者が「戦争はなぜ起きるのでしょうか」と問うと、宝田さんは「人間のエゴです」と即答し、「自分が体験した戦争の愚かさ、反省を若い人たちに伝えていきたい。ひと時も戦争の残酷さ、みじめさを忘れません」と続けた。
昨年7月、訪れた映画館で偶然、宝田さんと再会した。前年の取材のことを伝えると、「そうですか!その節はお世話になりました」と頭を下げられた。宝田さんから「私は耳が遠くなりましたので、大変申し訳ないですが、大きな声でゆっくり話していただけますとありがたいです」と取材前に伝えられていながら、記者の声が時折、小さくなったり、滑舌の悪さによって何度も聞き直されたことをわびると、「あなたは何も悪くない。聞こえない私が至らなかった。もし、申し訳ないとあなたが思われていたのであれば、この場でおわびします」と逆に謝られ、恐縮した。
その場で宝田さんの新刊「送別歌」(ユニコ舎)という自伝を購入。サインをいただくと、「不戦不争」の4文字がしっかりとつづられた。思いは一貫していた。
宝田さんは亡くなる直前まで、ロシア軍のウクライナ侵攻について、どう思われていただろう。77年前の宝田少年のように、銃弾にさらされる子どもたちがいることを…。改めて聞いてみたかったが、それもかなわない。