漫画界で確かな足跡を残しながら、はかなく使命を終えた数々の雑誌がある。今回は「マンガ少年」をピックアップ。手塚治虫『火の鳥』で有名な同誌は、作品名通りの不死鳥ぶりを具現化していた。
「マンガ少年」は1976年9月号から81年5月号まで発行された月刊少年漫画誌。73年に月刊誌「COM」が出版元・虫プロ商事の倒産により休刊し、中断していた手塚治虫『火の鳥』をメインで連載する雑誌として朝日ソノラマ(現・朝日新聞出版)が創刊した。同社は当時、『鉄腕アトム』のサンコミックス、復刻した『火の鳥』が好調で、石ノ森章太郎や松本零士、赤塚不二夫、藤子不二雄らとのパイプがあり、創刊号にはこれら人気作家が勢ぞろいした。
石ノ森らは手塚が『火の鳥』を最初に発表した「漫画少年」(1948年1月号~55年10月号、学童社)に育てられ、「COM」では中心的な役割を担った。彼らは「漫画少年」で育ち、「COM」で青年期を迎え、大人になって「マンガ少年」で作品を発表した、と言えるだろう。
手塚は虫プロ商事の倒産、ヒット作に恵まれなかった時期から73年の『ブラック・ジャック』、74年の『三つ目がとおる』で完全復活を遂げていた。自身に憧れ漫画家を目指したトキワ荘グループを初めとするフォロワーとの競演、『火の鳥』の再開は、新旧の人気漫画家の歴史的な巡り会いを形にするものだった。
創刊号には『火の鳥・望郷編』を目玉に、石ノ森らのほかにジョージ秋山や石川賢、吾妻ひでおが参加。「週刊少年ジャンプ」でのデビュー後は存在感を示せていなかった、ますむらひろしが起用され、人気作家へと成長していく。みなもと太郎のエッセー『お楽しみはこれもなのじゃ』は過去の漫画作品を取り上げる内容で、漫画史を掘り起こす貴重な役割を担った。
創刊号の表紙には当時のSLブームに乗って蒸気機関車が登場。程なくして映画『スター・ウォーズ』『宇宙戦艦ヤマト』(ともに1977年公開)で巻き起こったSFブームを、漫画界では雑誌「奇想天外」(「マンガ奇想天外」を創刊)とともにけん引し、77年1月号からは竹宮惠子『地球(テラ)へ…』の連載が始まり話題を呼んだ。高橋葉介、石坂啓、木村直巳ら新人を発掘した功績も大きい。
手塚の『火の鳥』、藤子の「SF短編シリーズ」、竹宮の『地球へ…』、さらに石ノ森『サイボーグ009』などの看板作品はそろったが、なぜか雑誌の売り上げには結びつかず、5年足らずで休刊。後継誌「DUO」に一部作品は引き継がれたが、手塚は作品を発表しなかった。
完全な妄想だが、創刊号の表紙を飾ったSLとSFブームの中、1977年から開始された松本の『銀河鉄道999』の掲載先が「少年キング」ではなく「マンガ少年」だったら…。雑誌の運命は変わっていたかもしれない。(協力・明治大学 米沢嘉博記念図書館)