「ショートコント」を生み出したのは追っかけの女の子だった 伝説の漫才師が語る“真相”

橋本 未来 橋本 未来

 ショートコントを世に広めたとして有名なのが「ウッチャンナンチャン」。コントの題名を叫んだ後に短いネタを披露するこの形式は、その後、「ダチョウ倶楽部」をはじめ、数々のお笑い芸人の手本とされてきた。では、その形式を生み出したコンビをご存知だろうか。一部のお笑いファンの間で、今も“伝説の漫才師”として語り継がれているコンビこそが元祖と言われている。その名も「パート2」。“4コマ漫才”と題した短いコントを次々と繰り出すスタイルによって、80年代〜90年代のお笑い界で独自のポジションを確立したコンビだ。残念なことに、すでにコンビは解散し、芸人も引退。しかし、メンバーの森健四郎(69)に取材を申し込んだところ快くOKをいただいた。そこで、ショートコント誕生秘話について話を聞いた。 

誕生のキッカケはファンの女の子

 1975年にトリオ漫才「ヤングにっぽんず」を結成後、メンバーの脱退により79年に「パート2」として再スタートをきった二人は、鳴かず飛ばずの状態が続いていた。そんなとき、二人の追っかけをしていた女性からとある切り抜き記事を見せられたという。「新聞によく載っている4コマ漫画ですわ。その子が『これを漫才にしたらどうですか』って。直感的に『コレはいけるんちゃうか』って思いましたわ」。早速、新聞や雑誌に掲載されていた4コマ漫画を手当り次第に集め、4コマ漫画のようなネタを連発する“4コマ漫才”というネタを作った。

  「当時、若手の漫才師や漫才作家が集まって、お客さんにネタを披露する『笑の会』という勉強会があって、そこで初めて“4コマ漫才”を披露してみたんです。お客さんも芸人も、みんな『なんや、これは?』っていう今までに無い笑いが起きました。結果的に、投票では僕らのコンビがトップ。これで売れるって思いましたよ(笑)」。そのスタイルを引っさげ挑戦したのが、当時若手芸人の登竜門だった「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)。オープントーナメントサバイバルシリーズに参加し、見事優勝をかっさらった(1984年)。さらには、関西で伝統がある漫才の賞においても、次々と新人賞を受賞するなど、人気芸人の仲間入りを果たす。

 ◆すぐにマネをされたショートコント

 あらゆる紙面に掲載されていた4コマ漫画を収集していたと話す森。その中で、ネタの着眼点のヒントとして大きく役立ったのが「コント55号」だったという。「むかし、『コント55号のなんでそうなるの?』(日本テレビ)っていう番組を、浅草松竹演芸場で収録していまして、当時東京に住んでいたので現場でよく観ていたんですよ。オンエアはされないような、短い過激なコントも中にはあって、それがネタを作る時の指針になっていましたね」。

  そんな苦労の末、森は昼夜を問わずネタを作り続け、さらなる高みをめざそうと前進を続けた。しかし、思うぬところで二人の人気にかげりがみえはじめる。「『お笑いスター誕生!!』で優勝した後に、番組から声を掛けられてもう一回、出演したんです。その時のネタ見せで、何組かのコンビがショートコントのようなネタをやってましたんや。テレビで数回しか披露してへんのにね。『これは、遅かれ早かれ、飽きられる』って思いましたわ」。その悪い予感は的中。今はミュージシャンとして活動するダンス☆マンがメンバーだった「ジャドーズ」を筆頭に、「ウッチャンナンチャン」らが似たようなスタイルで売れっ子に。それと反比例し「パート2」は活躍の場が奪われ、再び日の目を見ることなく2000年にコンビを解散してしまう。

  森は最後に、「ショートコントの元祖」と呼ばれることについて、「正直ね、ショートコントという形式は昔からあるんです。『漫画トリオ』もそうですし、東京の軽演劇にもたくさんある。ただ、衣装を付けず、短いネタを連発する形式だけが新しかったんやと思いますよ」と、実に謙虚でうれしそうな笑顔で話してくれた。

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