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美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」誕生秘話、本人に“パクリ”告白した有名人は?…歌い継がれる名曲の背景

北村 泰介 北村 泰介
当時77歳の史上最年長で初出場を果たした2012年の「NHK紅白歌合戦」で、自作の「ヨイトマケの唄」を黒い髪と衣装で熱唱した美輪明宏さん
当時77歳の史上最年長で初出場を果たした2012年の「NHK紅白歌合戦」で、自作の「ヨイトマケの唄」を黒い髪と衣装で熱唱した美輪明宏さん

 歌手で俳優の美輪明宏さんが20日に老衰のため91歳で亡くなった。所属事務所が28日に公表した。美輪さんは2012年に当時77歳の史上最年長で「NHK紅白歌合戦」初出場を果たし、そのタイミングで翌年にかけて、取材場所となる都内の美輪さん宅に足を運んだ。当時、ネット世代にまで大きな反響を呼んだ代表曲「ヨイトマケの唄」が生まれた背景や裏話を改めて振り返った。(文中一部敬称略)

 その年の紅白は、美輪さんにとって、同曲が一般層にまで広く浸透するエポックメイキングとなった。丸山明宏名義でレコード発売されたのが1965年。シャンソン歌手として57年に自身の日本語訳詞で歌ったフランスの曲「メケメケ」のヒット後、数年の不遇時代を経て心機一転、作詞・作曲した曲だった。「フランスには革命の国らしくプロテストソングやワークソングがある。なぜ日本は流行歌ばかりで庶民に必要な歌がないのか。だったら、私がその元祖になってやろう」。美輪さんは思いを吐露した。

 レコード化のあてもないまま、テレビ朝日(当時NET)「木島則夫モーニングショー」で歌ったところ、大反響を呼んだ。「今までそっぽを向いていたレコード会社やプロダクションが飛んで来ました」。ちなみに「ヨイトマケ」という言葉は、土木作業で地面に打つ重しを滑車で上下させる時の掛け声「よいと巻け」に由来するといわれる。美輪さんは「引っ張り上げる時があんまり苦しいもんだから、肉親や恋人など愛する人の名前を叫んだんですね。『◯◯のためなら』と…。この思いやりが素敵です」と付け加えた。

 同曲には実在のモデルがいた。終戦後、東京・銀座で進駐軍の払い下げ品を売る屋台でアルバイトをしていた男子学生で、地回りのならず者に因縁をつけられていた時、美輪さんが間に入ってその場を収めたことをきっかけに親しくなったという。満州でロシア人兵士によって両親を目の前で殺され、中国人に助けられて1人で日本に引き揚げた後も、育ててもらった祖父が中学生の時に亡くなり、自ら施設に入り、苦学してエンジニアになった青年だった。

 美輪さんは「当時、彼のような人は日本にいっぱいいた。日本中がドラマを抱えていた時代でした」と振り返った。後年、再会した青年を自宅で歓待した際に「生まれて一度も自分のために赤飯を炊いて祝ってもらったことはなかった」と大泣きする姿を目の当たりにした。美輪さんは「私の頭の中でメロディーが鳴り出した。歌詞も、それまで忘れていた時代の記憶が蘇って浮かんだ。そうして『ヨイトマケの唄』ができたのです」と回顧した。

 同曲にまつわる裏話も聞いた。美輪さんはそのエピソードをユーモラスに語った。

 「あるテレビ局で(歌手・俳優の)武田鉄矢君にいきなり『申し訳ありませんでした!』って最敬礼されたんです。『何が?』と尋ねますと、彼は(自身が在籍した『海援隊』の大ヒット曲)『母に捧げるバラード』は『ヨイトマケの唄』のパクリでした…って言うの(笑)。『レコーディングが切羽詰まっていた時、自分では気づかないで作ったら、バンドの仲間にそう言われたんです。自分に染みついていて思わず出てしまったんですね。しまった…と思った時は後の祭りでした』と。確かに『母に―』の冒頭部分はそうだなと、私も初めて聴いた時に思ったんだけど、それはそれでいいやと何も言わなかった。ところが武田君は自ら名乗られた。私は逆に、なんて正直な人だろうと感心したんですよ。それで『じゃ、印税よこせ!』と突っ込み、その場は大笑いになりました」

 この逸話が示すように、それだけ後進への影響力があったということ。「ヨイトマケの唄」は坂本九さん(1985年死去、享年43)をはじめ、桑田佳祐、米良美一、槙原敬之、泉谷しげる、なぎら健壱、大竹しのぶ、氷川きよしら数多くの歌手にカバーされた。

 「(フランスの国民的なシャンソン歌手)エディット・ピアフは『時代を超えた唄を歌いたい』がポリシーで、私も大賛成。あえて時代遅れで結構です」。そう語っていた美輪さん。時代を超えた不朽の名曲は生き続ける。

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