大河ドラマ「豊臣兄弟」第16回は「覚悟の比叡山」。元亀2年(1571年)9月21日、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。信長が延暦寺を焼き討ちにした理由は、延暦寺が中立を保たず、信長と敵対していた浅井・朝倉方に加担したためでした。その恨み、鬱憤を晴らすため信長は延暦寺に攻撃を仕掛けたのです。叡山に押し寄せた織田軍は根本中堂・山王二十一社を始め僧坊なども悉く焼き払います。叡山の麓にいた老若男女は織田軍の襲来に慌てふためき、逃げ惑いますが、織田軍は僧侶のみならず「美女・小童」まで捕縛。捕縛された人々は信長の前に連行され、命乞いをしました。ところが信長は命乞いを許さず、首を刎ねることを命じたのです(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記「信長公記」)。そのため、同書によると「数千」の死体が辺りに散乱するという目も当てられない有様となります。
江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵の著作『信長記』にも叡山焼き討ちのことが記されていますが、信長が延暦寺を焼き討ちした理由を信長に加勢しなかった「遺恨」と記述しています。「信長公記」にも「信長記」にも叡山攻めにおける秀吉の動向などは記されていません。「武功夜話」(前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜。偽書説もあり)にも叡山焼き討ちのことを記されています。そこには信長は助けを乞う「坊主ども」を容赦なく退治したとあります。また秀吉の軍勢も叡山攻めに加わり、叡山の「残党」を討ち取ったと言います。同書には秀吉の弟・小一郎(秀長)は秀吉が城番を務めていた横山城(滋賀県長浜市)にいて「馬防柵」を取り付けるなどして、警備していたとのこと。
「武功夜話」の中には、逃れてきた僧侶が命乞いをするので、憐れみを覚えて(織田方の者が)「多少」見逃したとの逸話も掲載されています。秀吉に仕えた前野長康が小舟で逃れてきた叡山の僧侶を討ち取ったとの話の後で、この逸話が載せられているので、僧侶を多少助けたのは秀吉軍(前野長康)だったのかもしれません。一方で『武功夜話』は叡山の焼亡を「自業自得」とし、突き放すような書き方もしています。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子「織田信長」(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人「織田信長」(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎「秀吉と秀長 天下統一の軌跡」(内外出版社、2025年)