日本映画史に大きな足跡を残した俳優・菅原文太さん(2014年死去、享年81)が28日に没後11年となる命日を迎える。代表作である東映の「トラック野郎」シリーズについて出演者やスタッフ、関係者らの証言を集めた書籍発売を記念したトークショーがこのほど都内で行われ、菅原さんについても思い出が語られた。
イベントには、第1作の公開から半世紀の節目に出版された書籍「トラック野郎 50年目の爆走讃歌」(立東舎)の著者・小川晋氏を聞き手として、同シリーズの〝仕掛人〟となった元東映宣伝プロデューサーの福永邦昭氏が登壇した。
同作は菅原さん演じる主人公の星桃次郎と、相棒の愛川欽也(15年死去、享年80)が扮する〝やもめのジョナサン〟こと松下金造という長距離トラック運転手コンビによる活劇だが、その企画を持ち込んだのは、当時、ラジオ番組のパーソナリティーとして〝キンキン〟の愛称で人気のあった愛川さんで、福永氏はその橋渡し役を担ったという。
「ある日、久しぶりに会ったキンキンから『福永さん、実はこういう話があるんだけど…』と言われたんです。『ギンギラのトラックで、人情話で…』。その話を聞きながら、私は文ちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。文太さんは『関東テキヤ一家』とか『まむしの兄弟』とか、もちろん『仁義なき戦い』シリーズもあって、いずれも主役を張ったわけですけど、『やくざ映画はもう限界だ。そろそろ〝脱やくざ〟を図ろうかな』と酒を飲みながらこぼしていた言葉がずっと残っていた。それでキンキンと一緒にこの話を伝えに行ったんです」(福永氏)
その時、菅原さんは主演映画「県警対組織暴力」(75年公開)のクランクアップ直後、ゴールデンウィークの期間を利用して大腸ポリープの除去手術のためで都内の虎ノ門病院で入院中だった。手術も無事終わり、体にも支障がないことを確認してから見舞いを兼ねて、福永氏は病室を訪ね、同伴した愛川さんを引き合わせた。
福永氏は「文ちゃんは昭和8年生まれ、キンキンは9年生まれと1歳違いの同世代。性格は違うけど、この2人をかみ合わせたらいいなと思った。文ちゃんは手術が終わって暇でしょうがない時で、彼は本が好きですから、病室のベッドには本が積んでありました、そこに突然、愛川さんを連れて映画の構想を話したら、文ちゃんも乗ってきて『プロデューサーは誰々で、監督は誰を呼べ…』となって、話がどんどん進んでいきました」と振り返った。
同シリーズの第1作「御意見無用」は1975年8月に公開。そのプロモーションとして、福永氏はテレビ番組での2人の対談という企画を実現させた。NET(現テレビ朝日)と制作会社「テレビマンユニオン」による伝説のトーク番組「対談ドキュメント」で、公開を翌月に控えた75年7月20日に「つっぱり人生、映画讃歌」と題して放送された。その出演回は今年4~5月にCS放送「時代劇専門チャンネル」でオンエアされた。
菅原さんは「そろそろ曲がり角に来ているのは自分で分かるし、マンネリズムになっているし。この辺で、いろんな垢を一度洗い流さないといけないと思ってたわけ。年も40(代)でさ。20年くらい、映画でいろんなことやってきて、やりたいことができるようになったのは最近だからね」と番組内で心境を吐露。愛川さんに「友だち」としての付き合いを呼び掛けられた際、菅原さんが「あまり友だちになっちゃダメなんだよ。仕事の中で会った時には仲間であっても、終わったら、1人に立ち返っていかないと。今までの俺の経験から、なんかそんな感じがするよね」と返した言葉にも生き様を感じさせた。
そんな番組を紹介した福永氏は「クランクイン前に2人の意気込みを雑誌や新聞ではなく、テレビ番組で伝えたこと」の意義を半世紀後の今、改めて強調。同シリーズは第10作の「故郷(ふるさと)特急便」(79年12月公開)で終了したが、小川氏は「ファンがいる限り、彼ら、彼女らの心の中で一番星号は永遠に走り続けている」と著書に綴った。
「一番星号」とは菅原さん扮する桃次郎がハンドルを握った「デコトラ」の愛称。作品の中では今も、菅原さんという唯一無二の名優の記憶と共に疾走している。