【地下鉄サリン事件30年】響く全館コール…何が起こった? PAM投与までの混乱と苦闘 治療した医師が語る

谷光 利昭 谷光 利昭
地下鉄サリン事件から30年となり、東京メトロ霞ケ関駅で献花する高橋シズヱさん=20日午前、東京都千代田区(代表撮影)提供/共同通信社
地下鉄サリン事件から30年となり、東京メトロ霞ケ関駅で献花する高橋シズヱさん=20日午前、東京都千代田区(代表撮影)提供/共同通信社

 1995年3月20日、あの日からちょうど30年となった。日本中が震えたテロ…地下鉄サリン事件。都内の病院に続々と運ばれた被害者を実際に診察した「たにみつ内科」(兵庫県伊丹市)の谷光利昭院長は今も「あの惨事を忘れてはならない」と話す。よろず〜ニュースに緊急寄稿した。

  ◇         ◇

 1995年3月20日、午前9時前だった。「内科の先生は、至急、救急外来にお集まりください!」。全館コールが病院内に鳴り響いた。このコールは、緊急事態が起きた時に一人でも多くの医師が治療に携わり、緊急事態を乗り切るための手段である。

 数分も経たないうちに「麻酔科の先生は、至急、救急外来にお集まりください!」と再び、全館コール。さらに時間をおかず「外科の先生は、至急、救急外来にお集まりください!」。コールが鳴り響くと同時に、医局にいた外科医全員が7階の医局から救急外来に我先にと階段を駆け降りた。当時、私は東京・秋葉原にある三井記念病院の外科レジデントだった。

 尋常ならぬ出来事が病院で起こっている。その時点で、これまで経験したしたことがない状況であることは容易に想像できた。

 1階に到着。非常階段の扉を開け、薬局の前を駆け抜けると、待合は救急隊によって搬送された患者さんで溢れていた。凄惨な状況だった。

 次々と救急車が到着し、待合室が狭く感じられた。何が起こったのか?…わからない。まったく予想もできない。次々と救急車が到着し、待合室が狭く感じられた。原因不明の毒物か、ガスか、薬物か…わからないものに苦しむ患者さんでフロアは埋まっていった。

 通常の外来はすべてストップとなり、予定された手術も中止。帰宅可能と判断した患者さんにはとにかくお願いをして、緊急に退院して頂いた。特に小児科の患者さんには、無理を聞いて頂いた記憶がある。

 気分が不快でうずくまっている人、毛布にくるまっている人、嘔吐している人、意識がない人…重症度は様々。当時、受けた衝撃があまりに大きく、詳細までは思い出せない。我々、医師にできることは運び込まれてくる患者さんの重症化を防ぐための対症療法だけだった。

 医師になって2年目だった私は、先輩医師の指示を受け、重症度が高い患者さんを優先に点滴したり、気管挿管を施行して人工呼吸器につないだり、中心静脈の確保をして循環動態の安定をはかったり…とにかく手を動かすだけで精一杯だった。原因が分からないまま時間だけが過ぎていく。その時間を長く感じたのか、短く感じたのかさえ思い出せない。

 毒物の吸入が原因かもしれないという予測のもと、開かずの扉のICUの窓を開け、重症の患者さんをICUに送り込んだ。記憶が正確ではないかもしれないが、午後2時40分頃に「サリン」による被害であることが判明。有機リン剤中毒の解毒剤であるPAMを入院患者さん全員に投与した。

 その日、病院の日常業務はストップし、帰宅したのは午前2時頃。阪神・淡路大震災の日(1月17日)に上京した妻が、サリンを撒かれた数本前の地下鉄で通勤していたのを知ったのは帰宅後だった。そして、テロに対して怒りがわいてきたのは、長い一日を終えた翌朝、目を覚ましてからだった。

 亡くなられた方、ご遺族、30年経った今も後遺症で苦しんでいる患者さんがおられます。こんな惨事が二度と、絶対にあってはならない。いつも心に念じています。

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