1月から吉本興業所属となった俳優の直江喜一は、昭和期のドラマで今も語り草となっているTBS系「3年B組金八先生」第2シリーズ(1980―81年放送)で世に出た。不良生徒と見なされながら繊細な心を持つ少年・加藤優(まさる)を熱演して時の人となった直江が、よろず~ニュースの取材に対し、当時の思い出やその後の会社員人生にも及ぼした影響を振り返った。
8日で62歳になった直江。「金八先生」で中学3年の役を演じた当時は高校3年だった。第5、6話「腐ったミカンの方程式」で、金八役の武田鉄矢が加藤らを例えたフレーズ「腐ったミカン」は流行語となり、人気がブレーク。直江より誕生日が1日早い、同い年の沖田浩之さん(99年死去、享年36)と共に注目された。「自宅の空き部屋はファンレターやぬいぐるみでぎゅうぎゅう詰め。バレンタインデーには冷蔵庫が1年分のチョコレートで満杯になった」という。
81年3月20日放送の第24話。加藤らが卒業式前の放送室に立てこもり、中島みゆきの壮大な曲「世情」が流れる中、手錠を掛けられ、護送される姿をスローモーションで描いたシーンは今も語り継がれている。視聴率は30%を超え、放送中、直江の自宅に感動を伝える電話が殺到するほど反響は大きかった。
「今回、吉本さんにお世話になるまで、私はずっと中小の事務所にいて、金八先生の時もそうでした。(キャスティングなどで)悔しい思いをすることもありましたが、その時は人物本位で選ばれたキャストでした」
そう振り返った直江は、一時代を築いた名スタッフとの舞台裏を明かした。
「プロデューサーの柳井満さん(16年死去、享年80)や脚本の小山内美江子さん(24年死去、享年94)らが『加藤優役は真に誰がいいか』と考えてくださった。金八の1作目にゲストで出た僕のことを『あの時、マッチ(近藤真彦)とやってた子だ』と覚えられていて、2作目のオーディションで、ディレクターの生野慈朗さん(23年死去、享年73)が推してくださった。小山内先生には『あなたみたいな人がやるからリアルなの。かっこいい人がやるとスターになっちゃう』と言われました」
29歳で俳優を辞め、会社員となる。35歳で総合建設会社「松井建設」に入社後、「金八先生」にリアルタイムで影響を受けた世代がプロデューサーや監督になったことも背景に、40代半ばから俳優としてのオファーが続いて芸能活動を再開。現在、同社東京支店の営業第二部部長を務めるが、営業マンとして芸能界での知名度がプラスとなり、支障のない範囲での〝兼業〟が認められている。
直江は「この年末も『お得意様に私のファンがいる』ということでサインをしてきました。地鎮祭で私の写真を撮りたいとか、会社としても宣伝にもなる状況で、そういうところは会社も理解してくださって感謝です」と語った。さらに「50代以上の人にはだいたい覚えられていますね。最近は『加藤優』だけでなく、直江として、私が出演しているドラマ『おいしい給食』を子どもさんと一緒に観ていた若い親御さんにも知っていただいています」とも付け加えた。
俳優業だけでなく、音楽、マラソンチーム、ラジオDJ、地元消防団の班長など活動は多岐にわたる。「金八」第8シリーズまでの出演者と今も「先生」と慕う武田の誕生日に行う飲み会の幹事も務め、武田から「お前、いい生き方してんな!」と称賛されたという。「腐ったミカン」と「加藤優」は登場から45年を経た今も財産となっている。
「吉本の芸人さんも『腐ったミカン』の話が好きな方は多くて、ナインティナインの岡村隆史さんや今田耕司さんもそのようです。『加藤優』という代名詞は、44-45年もたって忘れられてしかるべきなんだけども、『ウルトラセブン』の『モロボシ・ダン』とか『男はつらいよ』の『フーテンの寅』などと同じで伝説化している。そういう俳優になろうと思っても、なかなかなれないわけで、いま考えたら、これはありがたいことだなと思っています」
直江はそう実感を込めた。