大河『光る君へ』藤原道長や宮廷人が女子の誕生を喜ばなかった非情な理由 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(K.Nakano/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「光る君へ」第43回は「輝きののちに」。三条天皇の中宮であり、藤原道長の娘(次女)の藤原妍子(母は倫子)は、長和2年(1013)7月、天皇の子を無事に出産します。その子は、女子(内親王)でした。喜ばしいはずの出産ですが、道長はこの時、孫の誕生に歓喜しなかったようです。それどころか、露骨に不機嫌な顔をしていたと言われています。その理由を、藤原実資(日記『小右記』の著者)は「女を産まれたことによるのであろうか」と推測しています。

 皇子ならば、後に天皇にすることもできるが、皇女ならばそれもできない。そうした想いがあって、道長は不機嫌だったと考えられますが、現代人から見たら、信じられない思考と言えるでしょう。しかし、そうした考え方は、道長のみならず、当時の宮廷人は持っていたようです。

 道長の三女・威子(母は倫子)は、寛仁2年(1018)、後一条天皇(父は一条天皇。母は道長の長女・彰子)の女御となります。その時、天皇は10歳ばかりの少年でした。一方、威子は18歳。そうした年齢の差もあり、威子はなかなか妊娠しませんでした。威子の初めての出産は、万寿3年(1027)12月のことです。

 平安時代中期の公卿・源経頼は日記『左経記』の中で、威子が「女」(章子内親王)を産んだことを「頗る本意と相違す」と記しています。その言葉の後には「(相違す)と雖も、平安(安産)を以て悦びとなす」とは書いてはありますが。威子は、長元2年(1029)2月にも再び、女子を出産します。馨子内親王です。

 ところが、この時も「宮人の気色、太だ以て冷淡」(『小右記』)だったとのこと。宮中の人々は、皇子の誕生を期待していたのでしょうが「冷淡」とは露骨な表現であります。ちなみに、馨子内親王の出生時には、既に道長はこの世を去っていました(1028年死去)。もし道長が生きていたら、かつてのように不機嫌な顔をしたでしょうか。それとも老年に達し、そうした事への関心は薄らいでいたでしょうか。

◆主要参考文献一覧 ・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)。

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